現代は何をするにも目的や目標、もしくは意味付けがいる時代だ。
生きていくための言葉や目的・意味を昔は、学生時代はずっと探していたように感じる。
大袈裟に言えば自分の生きていく理由や目的を確かな言葉にしたいと望み、読書や、出会い、経験を積むことを繰り返した感じだ。
社会人になって、そういうことも時々考えはしたけど、何より目の前の仕事と生活に追われて、自分自身の生きる目的感や意味づけなどについて思う時間も少なくなっていった。
忙しいから、とか、今が大変だから、とかいうこともあるけれども、次第に自分にとってはそういう意味づけや目的感が重要には感じなくなった。
もちろん今でも何かそれらしいことを恥ずかしげもなく言えば何か言えなくも無いけれども、
どのような言葉もなんだか嘘っぽいし、言った瞬間にそれだけでは無いと感じてしまう。
そんな言葉のリアリティよりも、いま大事な身近な人たちのことや自分自身の健康のこと、些細なリラックスできるひとときの方がとても大事でリアルティを感じるからだ。

ただ仕事を他人と一緒にする場合、様相が大きく変わってくる。
誰かと一緒に仕事をする場合、それこそ分業がしっかりと決まっていて、タスクが決まりきっているような協業なら、あまり言葉の意味づけや目的感は必要ないだろう。
けれど、現代はVUCAの時代。この不確定な時代に、ただタスクが決まりきってそれをこなし続けるだけという仕事は、どんどん代替品にアウトソースされていく。
この変化する時代は現場も経営者も中間マネージャーも若い人もベテランも様々な立ち位置の人が力を合わせアイデアを出し合い素早く現場に投入し、素早くPDCAを回す必要がある。
そう言った時の為に意味づけや目的、目標が必要なのだとすると、全ての意味づけは他人と共有しなければ意味がないかもしれない。

こういうことを考える時マックス・ヴェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」を思う。
この本が面白いのは、誤解を恐れず簡単に言うとプロテスタントの世俗的な禁欲の精神が内面で転倒された結果、「勤勉の精神」「合理主義」「利益の追求」となり、近代的・合理的な資本主義の「精神」に適合され資本主義が発展したという。そう言う意味では、現代の生産性の向上や、PDCAを高速回転させる昨今の「事業のために人間が存在する」(P 80)ような労働することそのものだけが目的化したような考え方は、個人の幸福の立場からすれば「まったく非合理的」だとウェーバーは言っている。
そうウェーバーは真面目に禁欲的に働くことは美徳だと思わされていることのカラクリを暴いて見せた。
それを知ったからと言って何かが決定的に変わるわけではないけれども、彼の言う通り、個人の幸福は働くことの外に見出すのも十分ありだと思う。

すでに読んでいる人は多いと思うけど、大流行の漫画「鬼滅の刃」は鬼と人間が戦う話だ。
鬼は元人間で、基本首を斬られたり、太陽光を浴びたりしなければ死なない。
人間よりも身体能力も強いし、再生能力もある。
そして鬼は全員人間時代に社会や世の中から見放され、不遇な人生を生きた人が鬼の血を飲み鬼になって、自分の為だけの生を合理的に全うしようとする。人間を食いながら。
そこで描かれている鬼たちは、まるで現在の自分の為だけを合理的に生きる人間にも見える。
物語の中には鬼たちの過去の出自を振り返るシーンが必ずあり、鬼での非道ぶりはなぜか共感を呼ぶほどのところがある。
それはまるで「精神のない専門人、心情のない享楽人。この無のもの」(P366)とウェーバーが言った文化的発展の最後に現れる「末人たち」そのものだ。
一方で人間の代表で戦う人間たちは感動的だ。
彼らは絶えず、鬼とは違い、自分の為ではなく人のために戦う。
特に映画になった炎柱の煉獄さんのセリフはいちいち胸に染みる!

鬼滅の刃を全巻読んで再度思う。
全ての目的や意味づけと言った言葉は、自分のためでは無く、他人と幸せに共存するのためにこそ意味があるものなのかもしれない、と。

以上、高井でした。