こんにちは。

人材紹介グループの安田です。

 

一昨日、中日の岩瀬選手が引退するとの報道がありました。

 岩瀬投手は歴代最多の406セーブを記録した現役最年長選手。愛知・西尾東高から愛知大、社会人のNTT東海(当時)を経て1999年にドラフト2位で中日入り。セ・リーグの最優秀中継ぎ投手に3度、最多セーブに5度輝いた。通算成績は999試合で59勝51敗、防御率2・31。  ――中日、岩瀬仁紀と荒木雅博が引退 今季限り(サンスポ)

岩瀬投手が中日入りした1999年、安田はまだ9歳、小学3年生でした。

当時の安田少年にとって、岩瀬投手は憧れの選手でした。

 

よく「安田くん何部だったの?どうせパソコン部でしょ?」と言われるのですが。

小学校時代は、夕方暗くなるまで毎日のように白球を追いかけ回す野球少年でした。

↑当時の安田少年。

ガリガリなのにキャッチャーやってたんですよ。

 

キャッチャーより後ろにボールが行くと大変なので、体格の大きい人をキャッチャーに充てるのが通例です。

ところが、僕の所属したチームだけはガリガリの僕が担当。

人材要件に全く当てはまらないミスマッチな気もしますが(笑)

 

ところが、このマッチングは意外と上手く行きました。

このポジションで大事なのは「ボールを取り損ねて後ろに逃がさないこと」「投手だけでなく、全体に目が向くこと」です。

僕は運動神経があまり良くないので、外野で修行していたとき、怪しいボールは意地を張ってまでグラブに収めようとせず、最低限身体の前に落とせればいいやと思ってやっていました。

それを監督が見ていたのか、たまたまいつもキャッチャーをやっている子が休んでしまった試合で「おい安田、今日の試合、ちょっとキャッチャーやってみるか。球は前に落とせばいい」と言ってキャッチャーにつけてくれました。

ボールに対する行動特性は上述の通りですし、もともと注意散漫で本当に集中力のない人間だったので、いつも周りをキョロキョロしています。

ピッチャー以外の人ばかり見てるので、逆に「あの走者、めっちゃすぐに走りそうだなー。これもしかして盗塁か?それかバントか?」なんてぽけーっと考えていたようで、これが結果として良い感じの試合運びを生んだようです。

ピッチャーをやっていた先輩はメチャクチャ不安そうでしたが。笑

 

そんなこんなで、じきにキャッチャーとしてレギュラーに抜擢。結局小6手前で、塾が忙しくなって辞めてしまいましたが。

表面的な求人要件に縛られない監督のおかげで楽しい小学生時代でした(笑)

 

 

 

 

 

さて、昔と言えばリーマンショックは2008年。もう10年も前のことです。

正確には2007年のフランス系大手銀行関連の危機(パリバショック)時から危機が表面化してきたのですが、リーマンが倒れたのは2008年9月。

リーマンブラザーズは当時の日本の国家予算額に相当する約60兆円の資産を抱える巨大金融機関でしたが、これが倒産しました。

リーマン破綻後、次に大きな証券会社としてメリルリンチ(こちらは100兆円規模!)が危機にさらされましたが、巨大銀行「バンク・オブ・アメリカ」が救済合併。

次に破綻するのでは…と考えられたのが、当時米国で第2位の名門証券会社だったモルガンスタンレーでした。

モルガンスタンレーは、三菱UFJから1兆円近い出資を受ける事により危機を回避。とにかく急ぎでお金を欲しかったが、あいにく祝日で電子送金が使えない!

仕方ないので、ということで、0をいっぱい書いた小切手を現地のUFJ社員がモルガンスタンレーに持参したそうです。
(※余談ですが、ナゴヤ人は今でも三菱UFJ銀行のことを単に「UFJ」と呼びます。「トウミツ」などとは決して呼びません。大阪の方々もUFJって言うんですかね…?)

↓0をいっぱい書いた小切手。

「ゼロが九個ついた現物の小切手など見たこともない。そんなことが可能なのかすらわからなかった。」  ――アンドリュー・ロス・ソーキン『リーマンショックコンフィデンシャル』(早川書房)pp.328-329
※写真出所も同書。

当時のモルガンスタンレー側の当惑振りが伺えます。

最近日経新聞でリーマンショックのことを振り返る連載が載っていたので、ふと思い出して『リーマンショックコンフィデンシャル』をパラパラと読み直していました。

専門的な分析はなく、次第に恐慌状態となっていく人間模様と、倒れ行く自分の会社を救うため、最後まで踏ん張っていた巨大金融機関エリートたちの動きを追うドキュメンタリーです。

翻訳には非常に定評のある早川書房による刊行。

リーマンショックから10年、秋の夜長に振り返ってみてはいかがでしょう。