これからも前向きに 名大社会長ブログ

カテゴリ「会社を想う 仕事を思う」の記事一覧:

名大社半生を振り返る その4

先週紹介した「キャンパス万歳トライアル」で思い出したことがあった。
このラジオ番組は2年で終了したが、2年目はゲストを招いてのトーク中心の番組となった。

ある時、原田知世さんがゲストに入ることが急きょ決まった。
パーソナリティーは僕に知らせようと会社に連絡をくれたのだが、すれ違い。
連絡が取れた時には出演は終わっていた。
もし、あの時、ラジオ局入りに間に合い、
原田知世さんと意気投合していたら、全く違う人生になったかもしれない。
タイミングは逃しちゃいけませんね・・・。

入社3年目頃(1992年)、会社の雰囲気は必ずしも良くはなかった。
トップ、幹部と若手と隔たりがあり、会社に否定的な社員が多かった。
そんなグループもできていた。
営業に出るとどこかに集まり、一日中、サボっていた。

僕も正直、サボったこともあったが、このグループには属していなかった。
大きな違和感を持っていた。
理解できなくもなかったが、会社を完全否定するのはおかしいと思っていた。
ただ隔たりを感じていたのは事実で、
そこを何とかしなきゃというのは後々の課題だったと思う。

この頃、会社は多くの商品を抱えていた。
自社媒体である「企業展」「転職フェア」。
それに毎週のように朝日新聞、毎日新聞の買い切りの企画があった。
Bing、DODAにもノルマが設定されていた。

バリバリの営業会社であったのは事実。
手ぶらで会社に戻るとどやされるので、夜まで時間を潰す社員もいた。
待遇は悪くはなかったが、徐々に退職者も出始めていた。

僕が所属していた営業推進課も上司とトップの折り合いが悪く、間もなくチームは別部門に移った。
上司はしばらくして退職。
ただこのチームの結束は固く、今でも年1回は集まって親交を深めている。

当時の最初の上司は少し前に某新聞社を定年。
同じチームの仲間はそれぞれの会社で頑張っている。
特に2歳上の先輩は今では名古屋で有名な食品会社の常務取締役。
チームは違うが一つ下の後輩で有名人もいるしね・・・。

チーム4人でよく飲みよく食べ、よく歌った。
一人暮らしをしていた僕のワンルームマンションに泊まることも多かった。
一緒に出社するとバレルので、ワザと時間をずらした。
仕事はハードだったが、夜も元気だった。

続く・・・。

名大社半生を振り返る その3

入社から3年間、僕は営業推進課に在籍。
いろんな企画を行っていい部門だったが、他の新人や若手と同様、飛び込み営業の毎日。
研修は1か月で終わり、雑誌などの媒体からリストアップをし、
朝から晩まで飛び込み営業をしていた。

バブル後半期とはいえ世の中は超売り手市場。
どこの企業も人手不足に悩んでいた。
かといって新人がすぐに契約を取れるわけもなく、断られる日々が続いた。
門前払いも多かった。

その繰り返しの行動が結果として精魂逞しくなり、どんな企業であろうとビビることなく、
どんな偉い方であろうと緊張することなく話ができるようになった。

初契約は岐阜のゴルフ場のTVCM。
これは地元のご縁を頂いたような仕事で実力とは言えない。
営業に出て2か月ほど経った時に中区にあるアパレルメーカーからDODA1ページの契約を頂いた。

デザイナーに自分の想いを伝え出来上がった広告は今でも記憶にある。
当時、付き合っていた彼女と本屋に出掛け雑誌を一緒に見た。
自分の実力で初めて成し遂げたという気持ちが強く嬉しかった。

その後、継続的に新規契約が取れるようになっていった。
半年で同期の女子は消えたが、他の2人とはいいライバルだった。
誰しもが自分が一番できると信じ競い合っていた。
とはいえ4年後に一人退職し、7年後にもう一人退職したので、
気づいた時には同期はいなくなっていた。

それは同期だけではない。
今、名大社の社歴で僕に一番近いのはナンバー2の高井。
それでも8年か9年の開きはある。

入社の翌年は5名、その次は3名、その次は6名。中途採用も随時。
多分、それくらい。
毎年後輩は入ってきたが、誰も残っていない。
会社の激しさを物語っている。

残ったヤツが経営を任されているだけかと思うかもしれないが、
そのあたりのことは順を追って話していきたい。

若かりし頃の記憶でいえば、入社2年目に名大社でFM番組を持った。
リクルーティング広告が流行っていた時期。
「キャンパス万歳トライアル」というFM愛知の深夜番組で、
僕は担当としてクライアント開拓と番組制作を行っていた。
番組制作といってもパーソナリティーと一緒に大学のサークルを取材し、
それをラジオに乗っけるだけのこと。

結構、ナンパな仕事。
一時期は毎週そんなことをやっていたので、他の営業から見れば、
「あいつ、遊んでるな・・・」と思われていたかも・・・。

バブル期だからこその思い出。
そうそう、この頃、会社は絶好調で売上は今とは比較にならない。
利益はともかく新聞広告主体の売上だったので金額としては大きかった。

新卒向け合同説明会「企業展」も成長著しかった。
入社2年目には研修旅行でハワイにも連れて行ってもらった。
全額会社負担。
事前に小遣いが10万円支給された。

悲しいことに僕はその小遣いをハワイに行く前に使ってしまい、
旅行時はすでにお金はなかった。
ハワイでは先輩らに奢ってもらっていたような・・・。
社長にもめぐんでもらったような・・・。

けしからん若者ですね。

続く・・・。

一年間ありがとうございました!

2021年も明日で終了。
この12月は一昨年並みのスケジュール(あくまでも夜・・・)で忙しかった。
しかし、一年通して振り返れば、やはりコロナに振り回された年だった。

それが日常化する慣れは生活においてありがたいが、決して嬉しいものではない。
ニューノーマルかもしれないが健康的ではない。
そんな考えは古いのだろうか・・・。
オミクロン株の脅威もあるが2022年は健康的でありたい。

毎年年末に一年を振り返ることをブログのルーティンにしている。
誰のためでもなく、ふと自分が過去どうだったか記録を残しておくため。
恥ずかしい振り返りを読者に晒し公開処刑を受ける。
そして、自分を奮い立たせる。

今年の目標は大きく2つに分けた。
一つは前年と変わらない。
もう一つはこの先の10年を見据えて立てた目標。

前年と変わらない目標は、
・人を育てる 
・仕事を任せる 
・未来を創る 
・自分の時間を持つ 
・ルーティンを維持する

まとめて書くと、この1年は仕事を任せることは徹底してきた。
組織も刷新し役割も変化した。
それに伴い、人は育った。
特に幹部メンバーは育ったと思う。
決して育てたわけではない。

未来に関してはまだまだ。
新事業の取り組みやNFBの新展開はあったものの限定的。
継続課題といえよう。

自分の時間を持つことができた分、ルーティンも維持しやすくなった。
仕事を任せていく分、不思議に外からいろんな役割が降ってきた。
幹事、委員長、副支部長・・・。
その関係性は有り難いが、当初はこれ以上対外的な役割は増やさないことだった(笑)。

ルーティンはブログでも発表している通り。
映画50本なんて一昨日のブログでも書いたが、目標以上の出来。
(Amazonプライムを含めると59本)
ランニングの月間100kmRUNも11ヶ月達成なんて、過去ではあり得ない。
そう思うと読書は54冊としょぼいか。
(今日、明日で2冊増やす・・・)
そんな感じだった。

もう一つの10年を見据えた目標は
・責任を果たす、責任を取る 
・何かしらの影響を与える 
・自らへの投資、学び(学習機会)の継続

これについてはほとんどがこれから。
数ミリ程度の進捗でしかない。
来年は大きな一歩にしたい。

ざっと簡単にまとめてしまったが、総じて不甲斐ない一年だった。
自分自身でじれったさを感じながら、それを敢えてよしとしたり。

それでも無事に一年を過ごせたことには感謝。
頑張ってくれた会社のメンバーにも感謝。

もちろん家族にも・・・。
昨日は無理してご馳走しました(笑)。

一年間、ありがとうございました。

名大社半生を振り返る その2

僕が名大社に入社した1989年はバブル絶頂期。
世の中が浮ついていた時期で、少なからず僕も恩恵を受けていた。

この数年前から名大社も業績が向上し、入社時はイケイケ感が漂っていた。
入社の段階で社長から会社の好調さを伺っていたので、
バラ色の社会人生活を勝手にイメージしていた。
浅はかな若者だった。

僕の同期は3名。男子2人、女子1名。
女子は半年くらいで消えていたかな・・・。

当時、名大社の主な業務は新聞の求人広告。
それも案内広告と呼ばれる行数物の広告。
業界内では三行広告と呼ばれていた。
天地15文字の広告を3行から出せるという意味合いだろう。

今も存在するが、名大社でもほとんど対応していない。
原稿を書ける営業もほとんどいない。

バブル期は超売り手市場で、新卒採用も中途採用も企業側は苦戦していた。
名大社はのちに看板商品となる企業展(合同企業説明会)を展開していたが、
当時のシェアは小さかった。
圧倒的に新聞広告の売上構成が高く、また雑誌広告にも力を入れていた。

僕が入社した年に発行されたのが今は無き学生援護会のDODA。
DODAといえばパーソルキャリアの人材サービスだが、もとは求人雑誌。
当時のCMを覚えている方はいるだろうか。
「タンタカンタン、タタタッ、デューダ、デューダ」
という大地康雄さんのCMを。
学生援護会が先行するリクルートのBingに仕掛けてきたのだ。

そのDODAを名大社として積極的に販売する政策だった。
僕が配属された営業推進課は
「新聞はやらなくていいから、営業広告と新しいものをやれ!」
と言われ、メインの新聞広告ではなく、そちらをせっせと売り歩いていた。

僕のキャリアのスタートとしてはラッキーだった。
元々、新聞広告には興味はなく、できるだけ新しいことをやりたいと思っていた。
そもそも広告代理店を志望したのもTVCMのプロデュースやイベントをやりたかったから。
求人広告にはさほど興味を持っていなかった。

いかん、こんなペースで書いていくと2年くらい掛かってしまう。
すいません。
もうちょっと端折って書いていきます。

続く・・・。

名大社半生を振り返る その1

今日で名大社を任され12年が終わる。
明日から13年目がスタートする。

1989年に入社して33年弱。
2/3が社員として過ごし、1/3を社長として過ごしている。
長いようで短い。
短いようで長い。

僕の名大社の半生なんて大したものではない。
威張るものでもない。
それでも喜びも悲しみも経験し、多くの乗り越え、今に至っている。

世の中の成功した経営者からすれば、足りないものだらけ。
伝えられることも限られている。
しかし、自分が辿ってきた道を振り返るのもいい機会。

このブログで33年間の半生を綴ってみようと思う。
3回で終わるかもしれないし、半年くらい掛かるかもしれない。
先の見えない作業だが、当時の記憶を引っ張り出しながら、自分を美化せずに書いていく。

30歳からは日記をつけているし、半年に一度行われた幹部研修会も議事録が残っている。
そこを紐解きながら、どんな仕事をしてきたか、
何を考えて行動していたかをできるだけ披露していく。
プライベートなことは極力書かない。
必要最小限に留めておく。

今も当時の日記を読みながら振り返っているが(昨日現在で2008年)、
家庭内でいかに機能していないかが克明に書かれている。
特に30代は酷かった。
家庭のことは嫁さんに丸投げし、子育ても全て任せてきた。
罪滅ぼし程度の夏休み、冬休みの旅行と場当たり的な休日の遊びしかなかった。

今のご時世を考えると完全に家庭人失格。
よく我慢したと思うと共に子供たちを立派に育ててくれた。
ブログで振り返る前に、まずは嫁さんに改めて感謝。

あくまで仕事中心の日々だったが、言い訳はできない。
今思えば、自分でもよくあんな生活ができたなと感心してしまうほど。
後悔はしていないが、大いに反省はしている。

30代のハードな日々はいずれアップされるだろうが、まずは謝罪と感謝から・・・。
いかん、何も振り返らないうちに初回が終わってしまった。

次回より入社からの出来事を書く。
毎週月曜日は半生を振り返るブログ。

こちらのシリーズもよろしくお願いします!

奥井さん、37年間、お疲れさまでした。

これまで名大社には僕より先輩のメンバーが2人在籍。
その一人が奥井さん。
定年後、雇用延長を継続し、来年1月で満了となる。
そのため一昨日11月30日が名大社への最後の出勤となった。

奥井さん、37年間、お疲れさまでした。

本来は全員で送別会を実施したかったが、本人の体調とこの環境を考慮し見送り。
夕方に全員に集まってもらい挨拶の時間を取った。

奥井さんの素晴らしいところはいつどんな時でも手を抜かない、愚直に仕事を進めるところ。
ギリギリまで営業としてもこだわり、11月はなんと3件の新規契約をし新規賞も獲得。
そんな仕事の締め方も奥井さんらしさ。
その姿勢には改めて尊敬の念を抱く。

冒頭はその新規賞の表彰と僕の挨拶から。
奥井さんとの思い出話をいくつかする中で、
僕が入社一年目にオシャレなお店に飲みに連れて行ってもらったことを懐かしく語った。

本人は全く覚えていなかった(笑)。
新卒サイトの立上げの際は奥井さんの力がなければ成し遂げられなかった。
そんな話をつらつらした後に奥井さんからの挨拶。

あまり人前で話すことを得意としないため、きっちりとした原稿を作り、
それでもユーモアたっぷりに名大社での思い出を語ってくれた。
いろんな思い出やまた会社を去る寂しさもあるのだろう。
涙ぐみ、言葉に詰まる姿にはみんなもウルッときたと思う。
奥井さんのそんな姿は初めて見たといってもいい。
やはり、こんな時間は大切だ。

挨拶の後は各部門を代表して一人ずつ、奥井さんに贈る言葉。
紹介事業部の荻上は一緒に行った鈴鹿市の委託事業のことを。

商品管理部の不破は奥井さんの丁寧な制作物の仕事のことを。

営業部の重野は同じチームでやっていたイベントデータ集計のことを。

いずれも奥井さんの実直な仕事ぶりを表すエピソードだった。
そして、最後は堀口さん。

長年共にしてきた仲間への温かい言葉。
これまでいいことも辛いことも一緒に経験してきた。
外には公表できないエピソードもあり笑いを誘っていた。
奥井さんのネタがあれば2時間は軽く飲めるという。
僕も同時進行で走ってきた仲間として、いろんな姿が頭に浮かんでいた。

サプライズ的に一番若手の久保田、松本から花束とワインの贈呈。
照れていたのか、距離感のある写真(笑)。

最後は全員で急きょ記念撮影。

あれっ、ナンバー2がいない・・・。

今月の鈴鹿のイベントは手伝ってもらうが、会社としては一昨日が最後。
しばらくはゆっくりと体を休ませてください。
また、いずれは奥井さんらしく精力的な活動を。

奥井さん、37年間、会社を支えてくれて本当にありがとうございました。

1年8か月ぶりのリアル

先週金曜日はふるさと就職応援ネットワーク(Fネット)の11月例会。
正式にはハイブリットだが1年8か月ぶりにリアルでの開催。
ようやく全国の同業者の社長が集まり例会を開くことができた。

事務局であり会長である僕は事務局長に命じられ、
朝一番に会場となるハナリー島(先週のブログで紹介)に向かい、
カメラ・マイクチェックを含めた会場設営。

午前中は幹事会を行い、午後から例会がスタート。
この1年ちょっとの間に新たに2社の加盟会社が加わったが、
リアルで会うのは初めての方がほとんど。
オンラインで挨拶しているとはいえ、名刺交換から始まる何とも不思議な光景。

全加盟会社がリアルで集まるのは難しいが、こうして顔を合わせるのは誰もが嬉しいもの。
参加した全員がテンション高め。
オンラインでしか参加できなかった方は羨ましそうにこちらを眺めていた。
(実際は見えないけどね)

例会自体は全体の情報共有や各社の事業報告など真剣そのもの。
こうして各地域の新卒、中途動向を窺えるのはありがたい。

そして、今回は特別企画として創業者座談会を開催。
この場には各加盟会社の社員の参加もOK。
名大社のメンバーにも聞いてもらいたかったが、転職フェア開催日のため難しかった。
とてもいい話が聞けただけに残念。

座談会は人材情報センター夏至社長、パフ釘崎会長、キーカンパニー下薗社長の3名。
ファシリテーターをパフ吉川社長に務めてもらった。

起業のキッカケから成功体験、失敗体験、人材採用、リタイヤのことまで多岐に及ぶ。
お互い付き合いは長いが、知っているようで知らない事実は多い。
普段では敢えて話さないネタも飛び出し、面白おかしく聞くことができた。

起業のきっかけも壮大な野望とか理念というより、
泣く泣く起業したとか、酔った勢いで起業したというケース。
本音でストレートな話はやはり共感を生みやすい。
Fネット加盟会社の社長は創業者が多いので、うんうんと頷いていた。

3人とも順調な事ばかりでなく、苦労した時期を乗り越え現在に至る。
僕自身が学ぶべき点は多かった。
起業してよかったか?という問いには全員が〇。

やや、やらせっぽい写真だが同じ意見。
こうして例会は終了。
そして、こちらもみんなが待ち焦がれていた懇親会。
会場はそのままでなだれ込んでいった。

盛り上がりをみれば、この場を待ち望んでいたことがよく分かる。
せっかくのハナリー島なので順番に歌も披露。
パフの新旧社長をその代表としてアップしておこう。

僕は新幹線のぞみの最終に乗るために中座したが、できれば最後までいたかった。
やはり気の置けない仲間と一緒に語り合える場は貴重だし実に楽しい。
久々にリアルで仲間と顔を合わすことができて本当に良かった。

来年1月もそんな開催ができることを期待したい。
お疲れ様でした。

迷ったら茨の道を行け

先週木曜日は「第5回名古屋ファミリービジネス研究会Day4」。
気が付けば4ヶ月目に入った。
前回はやむを得ず数名の欠席者も出たが、今回はゼロ。
遅刻はあったが、Day1以来の全員出席。
緊急事態宣言が解除され懇親会が開催されるとこんなに効果が表れるものか(笑)。

いつものとおり僕のたわいもないファミリービジネスネタからスタート。

毎回30分ほどの時間を頂き、しょうもない話をするのだが、今回は超ショートバージョン。
ネタがないとか、批判を浴びたとかではなく、てんこ盛りのスケジュールのため短くした。
参加者の貴重な報告はもう少し長めに時間してもよかったけど・・・。

今回は最後の成果発表会に向けた準備。
これまで学んだ内容をおさらいすることに。
ブランディングの櫻山さん、ファミリーの関係性の丸山さん、
事業承継計画の鶴田さんとそれぞれポイントについて語ってもらった。

すでに完璧に仕上げられた経営者もいれば、まだ手付かずの経営者もいる。
実力のある方ばかりなので、特にツッコむ必要はない。
本人のまとめ方で対応してもらえればいい。

それも含め来月のDay5が楽しみ。
みなさん、期待しています!

Day4のメインは株式会社オーダースーツSADAの佐田展隆社長。
現在全国に54店舗を構えるオーダースーツ専門店のトップ企業をけん引される。

講演タイトルは「迷ったら茨の道を行け」
これは講演のために作られたタイトルではなく、尊敬する祖父がいつも口にしていた言葉だという。
佐田社長は常にその言葉を意識し実践されてきた。

僕よりも年下にはなるが、想像を絶するその半生はまるでドラマのようだった。
倒産寸前の家業に入社し、懸命に努力をしたにも関わらず私的再生。
再生ファンドに会社を譲渡された。
その後、再生ファンドが解散となり、結果的に家業に戻り会社を立て直すことに。

僕もある程度は苦労はしたが、比べ物にならない。
その過酷な道のりは到底真似できるものではない。
そこには親子の葛藤もあれば、あがいて散ろうという本人の覚悟もあった。

本来ならば涙なくして聞けないような内容だが、それを佐田社長は面白おかしく語る。
事務局側の我々も人前で話すプロのはずなのに、その話の上手さには感心するしかなかった。

どん底を抜け、成長過程になる中でもメディア戦略等、様々なチャレンジも続けられる。
いや、フルマラソンをスーツ着て走るって、それもランニングシューズじゃないって、絶対ムリでしょ。
そんなことも果敢に挑戦されてきた。

大切にされている規範(マインド)も納得感は高かった。
ブログで紹介したい気持ちにもなるが、それは参加者だけの特典としておきたい。

佐田社長は同族経営の3代目。
将来的にはお子さんに会社を継いでいく考えだが、今は先を見据え走られる。
今回の講演で大きな刺激を受けた方は多い。
いや、多いじゃない。
全員が刺激を受け、自社の成長に少しでも近づける行動を捉えていくだろう。
オーダースーツの裏ネタも掴めたし(笑)。

2時間近い講演は時間を全く感じさせなかった。
素晴らしい講演を1回で終わらせるのは勿体ない。
またお招きしようと事務局内でも早々に意見がまとまった。

改めでこういった研究会を主催できることにシアワセを感じたのは僕だけではないはず。
やはり継続していかないと・・・。

来月で第5回名古屋ファミリービジネス研究会も最後。
しっかりと課題に取り組んでもらい、いい締めくくりにしていきましょう。

佐田社長、ありがとうございました。
そして、みなさん、お疲れさまでした。
来月を楽しみにしています。

Pマークの更新は続く

先週金曜日はプライバシーマークの現地審査。
プライバシーマーク(Pマーク)とは、
個人情報について適切な保護措置を講ずる体制を整備している事業者等を評価し、それを認定する制度。
更新するには2年に一度審査が行われる。

例年は社内で実施だが、今回は緊急事態宣言のためオンラインでの審査。
それが先週金曜のこと。
僕は代表者として最初の20分程度、
事業や個人情報取り扱いの取組み、啓蒙等のヒアリングを受ける。
僕のヒアリングも5回目になるのかな?

大変なのはこのための準備を行うスタッフの面々。
まずはお疲れ様でした。
あとは無事に通ることを待つのみだね。

準備だけではない。
ルーティンな仕事として普段から体制を整え、各業者とも密なやりとり、書類関係もまとめる。
新たな運用ルールが決まれば遵守する体制も再度整備する。
地味だが、かなり気を遣う仕事。
改めて感謝!

このPマークを初めて取得したのは2004年。
17年の年月が経過している。
何を隠そう名大社が最初に取り組んだ時の企画推進担当は僕。
Pマーク取得のための準備と体制、運用を作ってきた。

きっかけは新卒サイト中心の会員登録がスタンダードになり、
個人情報の取り扱いやセキュリティに最善の注意を払う必要になったため。
今でこそ社内は当然の業務として進んでいるが、18年前は意識も薄かった。

紙文化で個人情報を含む書類は社内に散乱していたし、取得ルールも曖昧。
シュレッダーの存在すら知らなかった。
それは言い過ぎ(笑)。
とにかく一からすべて対応しなければならない。
そんな時期だった。

社内だけで完成させるのは無理で、コンサルに依頼し共に作ったのが最初の申請時。
個人情報保護方針の原形も僕が作った。
結構ハードだった。
コンサルの選定から実務まで中心的に動いてきたが、
元々そんな知識があるわけでもなく、学びながらやっていくしかなかった。

むしろ苦手な分野。
右脳よりも左脳を求められる一連の仕事は苦痛だったが、今思えばいい経験。
よくよく思い出すと、この頃重要な業務にことごとく関わってきた。

都合よく使われただけだが、営業し自分のチームを持ち、よくやれたと思う。
とんでもないミスを犯し、
(僕が犯したわけではないが・・・)
こっぴどく叱られたこともあった。

しかし、無事にPマークを取得したことで、むき出しの社内も奇麗になり、荒くれ者も静かになった。
当たり前にするまでは大変だが、当たり前になればあとは運用次第。
アップデートを繰り返していくだけ。
まあ、これも大変だけど。

代表者インタビューを受けるたびにPマーク取得の意味を問われるので、つい昔を思い出す。
今の事業を継続する限り、Pマークはついて回るだろう。
これからも更新は続くね。

まずはお疲れ様でした。

西川塾再開!講演会やります!

僕が関わっている経営塾の一つに西川塾がある。
ユニー創業者の故西川俊男氏が若手経営者育成を目的に創られた塾で僕は2013年から参加。
2015年に西川塾主が逝去されてからも塾生のみで活動していた。

それが昨年のコロナにより活動は休止。
この一年、動かなかった。
厳密にいえば近況を共有する懇親会は行われたが、研鑽を図るための活動はゼロ。
事務局に責任を押し付けるわけではないが、何もしないまま一年が過ぎた。
ようやく周りからの声掛けや事務局長がヤル気になり、8月より徐々に活動が再開。

一昨年までは塾主の記念日にあたる9月26日に特別例会として講演会を開催していた。
僕が副事務局長を務めた時は昨年逝去された大垣共立銀行の元頭取土屋嶢氏を招いたことも。
その時のブログがこちら

東海地区を盛り上げた方が亡くなるのは寂しいことだが、
現実として受け止めなければならない。

そんな歴史のある塾が再び動き始めた。
活動を記念して9月28日に講演会を開催する。

それがこちら。

西川塾の卒業生でもある共同ピーアール株式会社の谷鉄也社長が講演を行う。
僕が西川塾に入塾した理由は谷さんがキッカケでもある。
その活動を知りご縁を頂いた。

同じ経営者でも能力が違えばその後の在り方も違う。
谷さんは大手広告会社株式会社新東通信の社長に就任。
辣腕を振るうに留まらない。
上場企業でもある株式会社共同ピーアールを買収し2015年にトップに立たれた。
2019年には最高益を収めV字回復も果たした。

そんな方と懇意させてもらえるだけで光栄。
そんな谷さんに講演とトークセッションをお願いした。
なんとトークセッションは僕が担当。

あきらかに事務局の嫌がらせだが(笑)、ここは有難く引き受けることに。
運営にイチャモンつけてたしね・・・。
塾生仲間はいい企画と勝手に盛り上がっているが、寒くなっても責任は取らないからね。

それでも飛ぶ鳥を落とす勢いで活躍する谷さんの話を聞けるチャンスは滅多にない。
コロナ禍で制限をしながらの講演会のため定員は40名。
どうやら緊急事態宣言期間になるので、食事は持ち帰ることになりそう。

<西川塾二期生会 講演会>
テーマ/西川塾主の教えと成長への挑戦~M&Aの流れ~
講師/共同ピーアール株式会社 代表取締役社長 谷鉄也氏
日時/2021年9月28日(火) 17:15~20:00(受付:17:00~)
場所/名古屋クラウンホテル(名古屋市中区栄1-8-33)
費用/5,000円(お弁当付き)

申込みのWebページもFAXもない。
あくまでも塾生経由で参加者を募る。
参加したい経営者の方は直接僕に連絡をください。

先着順になるので、希望される方はお早めに!