昨日の新聞各社は元日産自動車社長 久米豊氏の死去を報じていた。
「シーマ現象」であるとか「日産の光と影」であるかと
様々な表現で社長時代のことが書かれていた。
いわゆるバブル時代で、僕も駆け出しの社会人として走り回っていた頃である。
当たり前の話だが、僕と久米元社長は面識はない。
(語るまでもないですね・・・)
ただ、その頃の仕事を通して、僕は僕なりに久米元社長に印象を持っていたのだ。
バブル時代は超売り手市場。
今年の売り手とは比べ物にならないくらいに、企業側の採用活動は積極的だった。
僕は持ち前のロジカルで情熱的なプレゼン能力で(ウソです)、
いや、たまたま運がよく日産販売社グループ全体の採用活動のお手伝いをさせてもらっていた。
何故か入社1年目から飛び込みに近いカタチで仕事を頂き、7~8年間、
グループ全体の採用活動に携わせて頂いた。ステージアも買ったけどね(笑)。
最初の頃は「熱血業界宣言」だった。
柳葉敏郎さんが日産のディーラーの営業マンで活躍する話だったと思う。
それをリクルーティングに繋げ、PRしていた。
その後は、オリックス時代のイチロー選手を使い、
学生向けにグループ全体の広報を行った。
僕は東海地区全体や岐阜県のグループのための
合同説明会やちょっとしたイベントを仕掛け、学生動員を図っていた。
今はなき日産ギャラリーでイベントを打ったこともあった。
トヨタ傘下にあるエリアなので苦戦もしたが、面白い仕事だった。
その当時は日産本体が販売会社を支援するスタイルもあり、
本社の担当の方とご一緒させていただいた。
一度だけ本社の人事担当役員(違ったかな?)の方と挨拶をさせて頂いた。
まだ2年目のハナタレだったこともあり、
その醸し出されるオーラにガチガチに緊張していた覚えがある。
今回の久米氏の死去の報道を拝見し、失礼ながら懐かしくその当時の頃を思い出した。
確かBe-1なんていうポップなクルマもあったな・・・。
そんな日産販売会社グループとの仕事は僕のキャリアを形成する上でも、
いい経験であった。
そんなひとつひとつが今の自分を形作っているんだよな。ありがとうございました。
心よりご冥福をお祈りします。
昨日、一昨日は転職フェア。
おかげさまで多くの方に来場頂き、満足のいくイベントを行うことができた。
新しい試みもプラスに働いた。懸命に取り組んできたメンバーは報われたことだろう。
僕は初日は4時間程度しか会場におらず、昨日は一日中、会場内にいたも関わらず、
ほとんど何もしなかった。
そんなことを言えば、いつもは何かやっているように思われるかもしれないが、
ヘラヘラしているだけで全然変わらないのだけれど(笑)。
そして、2週間行ったインターンシップも終了。
4名の学生くんも昨日が最後の就業体験になった。最終日は律儀にお菓子を持参してくれた。

イベント会場にいるスタッフだけでなく、社内のメンバーにも用意してくれたのだ。
なんという嬉しい気遣い。最近の若者は言われたことしかできないというのはウソだね。
休憩時間に4名の学生のこの2週間の事を聞いてみた。
前回のブログの事があるので、僕には慎重に言葉を選んでいるようには思えるが(笑)、
この期間で感じたことを素直に話してくれた。
共通するのが、この2週間があっという間で、とても有意義であったということ。
緊張の連続だったが、充実した毎日を過ごしたようだ。
インターンシップに来る前と終了する時には職業意識も変わった。
以前は業界や職種に偏った見方があったが、営業同行したり、
その営業先で多くの人事担当に触れ合うことでその価値観は変わってきたようだ。
真面目な話をされる時もあれば、からかわれる時もあったりと状況は様々だが、
それも本人たちにとってはいい機会。
異口同音に言っていたのは、有名企業が会社選びの重要なポイントと考えていたことの誤り。
いろんな会社(それも自分の知らない会社)と直接接して、
知らない会社でも魅力ある会社は沢山あるということ。
僕らには当たり前に思えることも学生にしてみれば新鮮で、
それがリアルに感じれたことの影響は大きい。
世間の評価が高いから自分にとってのいい会社ではなく、
自分の目で確かめた会社が自分に合う会社であることを認識したようだ。
たった2週間で吸収することは限られているとは思うが、
そんなことを感じ自分自身の中に落とし込めたのは彼らの成長だろう。
多くの気づきを与えられたのなら、こちら側としては満足。
うちの若手連中ともかなり仲良くなったようだし(それはいいことか・・・笑)。
少しでもこれからの学生生活、また今後迎える就職活動に役立ててほしい。
最後に担当の名大社女子と共に記念撮影。いい笑顔。

僕も一緒に撮ったのだが、あまりにもお疲れモードが出ていたので、掲載拒否に・・・(笑)。
これからも懸命にもがきたまえ(笑)。
困ったらいつでも遊びに来なさい。
一昨日月曜は午後から「ジモトシゴト研究所ワークショップ」。

一体、「ジモトシゴト研究所」って何だ?と思われたことだろう。
当初は秘密結社(?)的にこの地元で働くとはどんなことだろう、何が嬉しいのだろう、中小企業で働く魅力はなんだろうとという事を考える場を作っていた。
それをトコトン研究して、名大社なりのジモトシゴトを見極め、会社としてメッセージを発信していこうとできたのが「ジモトシゴト研究所」。
大手企業よりも地元の中小企業をフォーカスし、その魅力を伝えていく。
そのためには中小企業が魅力的になること、中小企業が魅力的と思わせることが大切になる。
就活生が最初から中小企業を魅力的と感じるのは少ないのが現状。決してそれが悪いのではない。それを伝えきれていない自分たちや企業に責任があると考えてもいい。
そこで「ジモトシゴト研究所」を設立して、情報発信をしていくこととなった。それを名大社だけで考えて情報を提供するのは限界がある。
また、自分たちの理想を企業に押し付けることになる。それは正しい姿とはいえないだろうというのが僕たちの見解。そのため第一弾として、いろんな方を交えワークショップを行ったのだ。

本来はうちの綺麗なセミナールームを使えばいいのだが(笑)、たまたまクライアントに貸出ししていたこともあり、貸会議室を借りて、みっちり3時間のワークショップ。
参加してもらったのは、僕のマーケ師匠、知り合いやクライアントの経営者、中堅、若手の採用担当者、採用コンサルタント、フリーライター、そしてうちのメンバーと業種、世代、役割もバラバラ。
元々、今回のワークで全てをまとめるつもりはなかったので、できるだけ意見は拡散した方がいいと思い、様々な価値観の方をお招きしたのだ。
詳しい内容は今後Webで展開する予定なので待っていてもらいたいが、自分たちだけでは思いつかないような課題やアイデアがあふれ出てきた。
今の時代、部屋に閉じこもって考えてるだけでは新しいものは生まれませんね(笑)。やはり共創の時代ですね。
すぐに方向性が固まり、一本の筋道ができたわけではないが、これを繰り返すことにより、自社の振り返りになったり、今後の対策になったりする。
多くの意見を頂き、場を提供した名大社が一番メリットが大きかったのかもしれないが、参加頂いたそれぞれの方にも新しい気づきがあったようだ。これからはこういった場から新しいビジネスが生まれてくるのだろう。
今の若い世代の人生観や与えられた教育環境を変えていくことは僕らにはできない。しかし、その若い世代に新しい価値観を吹き込み、前向きな一歩を踏み出させることはできるはず。
それを自分たちだけではなく、多くの方と一緒に発信していく。個人と企業がよりよい関係性を築くためにジモトがある。保守的に安定だけを求めるのがジモトではない。新しい価値創造や本当の働きがいを求めていく。ちょっとカッコつけすぎ(笑)。そのためのジモトシゴト研究所。
少しずつカタチを作っていくのだ。
一昨日、参加頂いたみなさん、ご協力ありがとうございました。
また、今後、絡んでいただける方も求めています。
どうぞよろしくお願いします。
今週も慌ただしく過ごさせてもらった。社外にいることが多かったが、社内にいても打ち合わせが続き、自分の机で仕事することが少なかった。
益々、社内での存在感がなくなっていくな(笑)。
そんな中、一昨日の金曜は東京出張。
来年2月に初めての試みとして楽天さんと共催でイベントを開催する。その打ち合わせを兼ねて、楽天本社にお邪魔させて頂いた。

最近、英語を使う機会がめっきり減っており(全く使っていないし、全然喋れないという話ですが・・・)、公用語である英語が通用するか不安であったが、それは杞憂に終わった。僕のレベルでも十分対応できた。いや、日本語しか喋らなかった。
せっかくの機会だったので、名物の社員食堂も見学させてもらった。ショッピングモールにあるフードコートのイメージ。
基本、無料で食事できるのが羨ましい。
図々しくお願いしようかとも思ったが、時間がなかったこともあり、後ろ髪を引かれながら失礼した。次回、よろしくお願いします!な~んて・・・。
午後からはふるさと就職応援ネットワーク(Fネット)の総会&幹事会。早いものでこの7月から7期目を迎えることになる。徐々に加盟会社も増え、情報交換もより活発に行われるようになってきた。
今回は16卒採用に関する話題が中心。各社とも既に16卒向けの企画をリリースされているケースが多く、その内容も各エリアの特徴を活かしたものが多い。
インターンシップの変化版を提供する会社もあれば、中小企業のインターンシップを否定する企業もあったりと各社との情報交換は興味深く学ぶ点が多い。
早期中心の戦略を練る会社もあれば、うちのように後半型の会社もある。いずれにせよ16卒採用は初の試みにもなるため、試行錯誤を繰り返す面が多いのも事実。
そして、来年も売り手市場が予測されるわけだが、必ずしも我々の業界にとって追い風になるとは限らない。悩ましい問題もついて回るのだ。
そんなことを含めながら熱い議論が続いた。議論はその例会の場だけではない。懇親会にも引き継がれる。
しかし、懇親会ではあちこちへと話題が飛び、真面目な議論が繰り広げられるとは限らない。それはそれでいいのだ。結局、こんな感じで大いに盛り上がり、場は終了していく。

お疲れ様でした。福岡開催も期待してま~す(笑)。
昨日は「障がい者のための就職・転職面談会」を開催。午前中にゲリラ豪雨に見舞われ、心配する面もあったが無事終了することができた。そんなバタバタと過ごした一週間。
今日はようやくのんびりできる。ゆっくりと休養も必要だが、貧乏性の僕はどうやらドタバタしている時の方が合っているみたい。
さあ、これからどうするかな・・・。
先週11(金)・12(土)日は転職フェアを開催。今回は当日を迎えるまでかなりドキドキした開催であった。


先週は台風8号の影響で日本中が大荒れとなり、あちこちでその惨状が伝えられた。ニュースを見る度に辛い気持ちにもなってくる。台風が直撃するエリア以外でも予期しない被害が起きていたし・・・。
東海地区は10日から11日にかけて台風の直撃が予測され、警戒するよう各マスコミが呼びかけていた。
台風なんて当たり前のように毎年やってくる。特に驚くべきではないが、最近は大雨や土砂崩れがハンパないため、その被害については辟易してしまう。
ただ、普段であれば、日中の仕事の流れや交通機関の乱れを見ながら、社員の出社、帰社を気にすればよかった。
しかし、今回はそうはいかない。イベント当日に台風直撃となることも予測された。
大袈裟で心配性の取引先は「東海豪雨なみの大雨になりますよ。」と僕らがビビってしまうような発言をしていた。何事も楽観的に捉える僕でさえ、必要以上に深刻に考えてしまった。
そして、最悪の最悪を想定し、万全の準備を行うよう働きかけた。
何名かの社員には前日に会社近くのホテルに宿泊してもらい、どんな場合でも対応できるようにし、僕自身も普段は使わない社用車で帰宅し、交通機関でも車でも動けるよう調整した。
そして、当日のオペレーションも最悪の事態を想定した対処方法を全体で理解し、進めるよう計画を立てた。クライアント、ユーザーにご迷惑をお掛けしない最善の方法を考えて・・・。
どうか天気になりますように!
その願いが叶ったかどうかは不明だが、当日の朝起きてみると雨も風もない。台風の影響は全くといっていいほど、見られなかった。
安心したせいもあり、朝にランニングもしてしまった(笑)。
そして、迎えたイベント開場時間。いつもと何一つ変わらないイベントのスタートとなり、来場者向け講演も参加企業ブースもほぼ予定通り進めることができた。
社長は愚か者でも、他のメンバーが賢者なので、天は我々に味方をしてくれたのだ(笑)。感謝!感謝!
本当に杞憂に終わってよかった・・・。
今週は障がい者向けイベントが行われる。
詳細は明日のブログに書くが、引き続きよき天候をお願いしたい!
1ヶ月に書いた「社長になるまでのこと」ブログは会う方、会う方、いろんな感想を言って頂けた。
「山田さん、あのブログ、良かったよ。」
「ありがとうございます。ということは他のブログは全然ダメということですね?」
「あっ、いやっ、そうゆうことじゃなくて、あっ、いや、その~(汗)、お先に失礼・・・」
とそんな感じ。でも、感想を頂けるのは嬉しいこと。
あの流れでは書くことができなかったが、つまらない事実だけど僕にとっては重要なことをオマケとして紹介したい。
社長に就任する前のしばらくの期間、僕は副社長として仕事をしていた。(対外的には8か月程度だったが、実際はほんの短い期間だった。)
役員(取締役)の時は社員兼務のため、会社を退職する手続きは取っていなかった。副社長になる段階で一旦、会社を退職することとなった。情けないが、そんなルールも知らなかった。
総務担当から「哲ちゃん、一旦、会社を辞めてもらうことになるからよろしくね。」と言われ、何の戸惑いもなく「わかりました。」と答えたと思う。
そして、手続き上ではあるが、僕は会社を辞め、改めて副社長に就任した。退職金の額も全然知らなかった。
その総務担当から「退職金は○○円になるからね。よろしくね。」と言われ、「そんな額しかないんですか?」とその少なさに聞き直してしまった。
そうすると総務担当は嬉しそうに「哲ちゃん、あと数か月勤めていれば、勤続20年で金額もかなり増えたのに、残念だったね。」と満面の笑顔で答えてくれた。
「え~、もっと早く言ってよ~。」とどこかのCMみたいに抵抗するものの、規則は変わるわけもなく、僕は20年弱の会社員生活を終えた。
ちゃんと就業規則や賃金規定はチェックしないといけませんね(笑)。
そのわずかな退職金も自社株を購入するために全て使ってしまったので手元に残ったのは一銭もないんだけれど・・・。
今も総務担当のTさんの笑顔が忘れられない。
「え~、もっと早く言ってよ~。」と今でも言いたい(笑)。くだらないが僕には重要なオマケでした。
12月上旬、急に社長宅に呼ばれた。経営資料を携え最終的な詰めを行った。そして、その時に僕が正式に会社を引き継ぐことが決まった。
驚くほど呆気なかった。
対外的には翌年の株主総会後だが、実質は12月21日より全ての決裁権を自分が持つことがその場で決定した。社長は体調を崩していたこともあり、自ら対応を早めに決断したのだろう。
さすがにその夜は眠れなかった。布団の中にいても目が冴えるばかりだったので、当時放映されていた「坂の上の雲」の録画を観た。
この世界に比べれば、まだまだ小さい事じゃないかと自分を納得させていた。そんな気持ちで自分を維持しようとしていた。
寒さが堪えたのか、結局、風邪を引いてしまったことを記憶している。
とりとめなく書いてきたが、これが僕が社長になるまでの経験してきたこと。
帝王学を学んだわけでもなく、経営者の準備をしてきたわけでもない。それでも会社は成り立つ。会社は毎日動いていく。
その年の大晦日の日記にも書いていたが、この一年は僕の人生の中で最も変化の激しい、スピードの速い一年だった。何年分かを一年で過ごしてしまったようだった。
トップを任される一年前に飛び込み営業をしている奴なんてあり得ない。
ここで会社以外のこと少し・・・。
社長を引き継ぐ事が決まった時、僕は実家と嫁さんの実家に挨拶に出向いた。僕の実家は岐阜で農業も含め自営をしている。僕は三人兄弟の長男。父親はいずれ息子は戻ってくると期待していたと思う。
僕が実家に挨拶に出掛けたのは、その期待を完全に裏切ることを意味していた。僕自身、そんな感じで思っていた。僕は父親に、これから会社をやらなければならない。家業はやれないとそんな様な話をした。
父親は「会社のことはよくわからんけど、あんばようやってちょ。」とだけ言った。”あんばようやってちょ”と言うのは岐阜弁で、”しっかりやってくれ”という意味。その言葉を聞いて僕は安堵とし父親の大きさに感謝した。
そして、嫁さんの実家にも挨拶に行った。その一年前、義父を癌で亡くしていた。僕は義母にこれまでの事を話した。
「これから会社を任されることになりました。家庭の事は今以上にないがしろにするかもしれません。もしかしたら、最悪の状況に引き込んでしまうかもしれません。嫁にも子供にも迷惑を掛けるかもしれません。」
そんな僕の言葉に義母は言ってくれた。
「天国に行ったお義父さんは喜んでいると思うよ。哲也さん、何も心配することなく頑張ってください。」と・・・。
僕は涙が出るくらい嬉しかった。結局、僕は周りに支えられて生きているに過ぎない。
支えてくれたのは嫁さんの存在もあるだろう。不思議なことに僕がどんな状況、立場であろうと何も変わらなかった。
単純に僕に関心がないだけかもしれないが、僕が役員を降格になった時も、給与が半分になった時も、社長になる時も何ひとつ変わらなかった。
「あら、大変、どうしましょ~。」と呑気に言うくらいで態度はいつも同じだった。そんな態度に僕は救われたのかもしれない。
長々と書いてきた「社長になるまでのこと」。
思い出したままを感情的に書いているので、どこまで伝わったかわからないが、今、こうしてこんな事を書けるのも幸せなこと。
改めて充実した毎日に感謝しなければならない。
<追記>
昨日までのブログでも多くの方から温かいコメントやメッセージを頂いた。このブログを書くにあたっては、会社の恥部を晒すこともあり迷いもしたが、この事実は会社の歴史としても残しておかなければならないし、知ってもらうことも必要だと考えた。それがあって今の姿があるのだから・・・。
僕はあくまでも「中継ぎ」である。理想を言えば、全盛期のドラゴンズの浅尾のようにしっかりとマウンドを守り、勝ったまま次の者に引き継がねばならない。それが最大の使命だ。
この実力もないボンクラ社長が当面会社の先頭に立っていくことで、周りには迷惑を掛けていくだろうが、これからも見捨てずにサポート頂きたい。
また、明日以降、このブログもただの愚か者ブログになってしまうが、引き続きご覧頂けるようお願いしたい(苦笑)。
ありがとうございました。
実際に僕も手取りの給与ではとてもじゃないが生活はしていけない。完全な赤字。幸いにも蓄えがあったため、貯金を切り崩しながらの生活だった。休日にバイトをしようと真剣に考えていた。
若手社員はそこまで厳しい待遇ではなかったが、会社に対してのロイヤリティは完全に失くしていた時期。不安しかなかっただろう。
組織全体もギクシャクしていた。社長とナンバー2との関係性が悪化した。少し前から一枚岩に思えた2トップの関係が怪しくなっていた。
詳しい内容はここでは書かないが、結果的にナンバー2は役員を降り、しばらくして退職をした。現場のリーダーを失くしたのだ。営業部門の一つを任されていた僕が先輩を差し置き全体を仕切ることになった。
ナンバー2が役員を降りる頃、社長の会社に対する方向性が定まってきた。高齢であった社長は自らの引退を表明し、3つの中から選択することを考えていた。
「会社の自主解散」「会社の売却」「社員が引き継ぐ」。
「会社の売却」は社長の意に反する面もあり、選択肢から消えていた。残すは2つ。2つとした時点で社長の考えはある程度、決まっていたようだ。
「会社の自主解散」。今なら社員に退職金を払って処分することができる。それが一番安全策という判断であった。
誰かに任せてもいいという話もされていたが、本意とは感じれなかった。それに相応しい人物はいなかった。
幹部会でその話を切り出したわけだが、僕は自主解散の判断はやむを得ないと正直思っていた。特に反対もしなかった。トップがそう判断するのであれば仕方ないと結構冷めていた。
幹部会終了後、ナンバー2が僕を個室に呼んだ。
「哲、なぜ手を挙げない。お前しかいないだろ。」と言われた。僕は理解できなかった。つい数か月前まで、僕は組織から外れ、ほとんど窓際にいた人物。クビに近い存在ではなかったか。どうしてそんなことを言われるのか当初は理解できなかった。
このブログを書くにあたり、その当時の日記を読み直してみたが、内容は酷いもの(苦笑)。疲れた、疲れたという泣き言とトップの非難ばかり。前向きさは微塵も感じられない。情けない話だが健全な状態ではなかった。
しかし、それは僕だけではなく全社員が同じように感じていたのかもしれない。
もしかしたらナンバー2の一言から真剣に考え始めたのかもしれない。それは今でも分からない。ただその頃から、会社をどうすべきかと真剣に向き合うようになってきた。
「自主解散」という選択が本当に正しいのか。
一生懸命働いている社員はどうなる?名大社を信頼してくれるお客さんを自分勝手な論理で裏切っていいのか?本当にそれが正しいのか、自分の行動はそれでいいのかと何度も何度も自問自答した。
次第に明確になってきた。そして、答えがはっきりした。「自分がやる」という解だった。
会社全体にそんな雰囲気が少なからずあったと自分勝手に感じていた。それが後押ししてくれた面もあるかもしれない。
だが、その判断は自分に最大のリスクを与えることになる。現時点で業績は最悪。売上も前年比3割である。3割ダウンではない。ワークシェアリングを実施しているとはいえ、赤字が続いていた。
このままの状態であれば、いずれ破たんを招くことになる。無借金企業といえどもあっという間に債務超過に陥ることもある。尊敬する先輩にも揶揄された。「どろ船の船長になるのか?」と・・・。
(続く・・・)
今でも時々考えることがある。
もしあの時、自分が引き受けていなかったら、会社はどうなっていたのだろうかと・・・。少なくない確率で会社の存在はなかった。
そうだとすると、現在、共に働く仲間、名大社を支えてくれるクライアントやユーザー、そして、僕がこの間、ご縁を頂いた知人やネットワークの存在もなかった。
あの時の決断は間違いではなかったと思うと同時に今、こうして毎日を過ごせることに改めて感謝。
本日、株主総会を行い会社を任され5年目を迎える今、いい機会でもあるので、当時の出来事を改めて振り返ってみたい。
役員を降格になったことは昨年同時期のブログに書いた。2009年がスタートした時は悶々とした状態で仕事をしていた。前年のリーマンショックで会社の業績は急降下。過去一度も経験をしたことのない落ち込みを日々の営業活動の中で実感していた。
それでも会社を辞める気持ちは不思議と消えていて、健康的な状態とは言い難いが真摯に仕事に向き合っていた。しかし、会社の雰囲気は最悪。退職する社員は後を絶たず、暗い雰囲気が全体を覆っていた。
組織の中心から外されていた僕は、会社を客観的に見ながらも一人黙々と仕事をする日々。自分に課せられた仕事をこなすのみだった。
だが、自分の環境も徐々に変わり始めてきた。社長やナンバー2にほとんど相手にされない日々から少しずつ意見を求められるようになってきた。単純に組織が疲弊していたのが理由だったのかもしれない。
そして、期が明けた4月に営業部門を任される人事が発令された。
「何という気の変わりようだ」と僕は半信半疑でしかなかったが、久々に部下を束ねることになり気持ちは盛り上がりつつあった。しかし、業績の低迷は変わらない。全く先行きの見えない時間を過ごしていた。
僕が代わる前に部門を率いてきた若手のリーダーはそれまでの態度と一変し、あっという間に会社を去っていった。
あれだけトップに忠誠を誓い、部下に対して罵倒していた存在はいとも簡単に会社を辞めた。その人事に納得できなかったのか、会社に愛想が尽きたのか、先行きに期待感がなかったのかは分からないが、僕は会社から逃げたとしか感じることはできなかった。
営業だけみれば僕よりは格段に優秀。後輩だったためいろんな話もしてきたが、それ以降は一切に連絡を取ることはなくなった。
そして、5月のある日、数名の社員と社長宅に呼ばれ、食事をすることになった。かなり重要な話がでることは覚悟をしていた。一つはワークシェアリングの実施、もう一つは僕の役員への復帰だった。
役員の復帰といえば聞こえはいいかもしれない。しかし、会社が最悪の時期にその役職は責任が重い。しかも、ワークシェアリングの中味は半端なかった。次長以上の役職は給与半分、出勤半分と大胆なもの。
僕の場合、給与半分にわずかな役員手当、出社は自由、すなわち休みはなしということだった。割の合わない仕事だった。会社は助成金の申請をしていなかったため、次長より上の役職者の生活は厳しかった。
(続く・・・)