ポスター(上記)には6/11より全国公開とされているが、
東海三県は先行ロードショーで5/28より公開。
公開2日目に鑑賞。

このブログでも何度か本作の紹介はしている。
監督は名古屋市熱田区出身の日比遊一氏。
何度か直接話を伺う機会があったが、名古屋への拘りを強く持たれていた。

ロケも名古屋でなければならないし、出演者は名古屋弁を喋らねばならない。
当初は圧倒的な郷土愛かとも思ったが、そうではない。
作品を観て大いに納得。

日比監督のいう名古屋でなければならない理由を。
それは僕が名古屋在住の地元愛や共感だけではない。
どこかの市長にような名古屋弁ではなく、自然な名古屋弁に吸い込まれたわけでもない。
その背景そのものに必然性を感じたのだ。

タイトルから想像できるように派手な作品ではない。
映画ならではのハードな演出があるわけでもない。
物語は静かに流れ、ありふれた日常的な会話が繰り返される。
ゆっくりと時間だけが過ぎていく。

しかし、次第に事の重さをヒシヒシと感じるようになり、気持ちが揺り動かされる。
せつなく辛い・・・。
悲しいかな感情移入していく。

本作は日比監督の原体験を描いている。
それはせつなく辛い。
日比監督は自伝的にそれを描こうとしたのではないだろう。

人として死とどう向き合うか、家族とは一体何なのか、生きる意味をどう持つのか、
それを観る者に訴えかけてくる。
そこに厚かましいメッセージはない。
あくまでも自問自答を繰り返すだけ。

知った場所の多さで感情的になるのは否定できない。
永瀬正敏演じる長男と自分とをオーバーラップさせる。
知らず知らずに巻き込まれていく錯覚にも陥る。

自分勝手な行動は夢を与えるが身内を苦しませる。
ゆえに正解は分からない。
映画を観終わって、日比監督のメッセージが熱く伝わってきた。

名古屋を舞台にした映画は少ない。
だから観てもらいたい。
そう思わないでもない。

しかし、仮に名古屋ロケでなく、日比監督の想いを知らなかったとしても本作を推す。
より多くの人に観てもらいたい。

舞台の中心となる熱田神宮周辺は知っているとはいえ、さほど馴染みはない。
年数回しかお邪魔しない。
一方で数年前まで毎日にように歩いていた円頓寺商店街。
この商店街が映画の重要なシーンで使われる。

気づいた人は少ないかもしれない。
ただこのシーンがあってこそ映画が成り立つ。
個人的にはとても喜ばしい。

ぜひ、確かめてもらいたい。
永瀬正敏やオダギリジョーや今井美樹の名古屋弁と共に・・・。