多分、うちの会社に詳しい業界の方は思っていたと思う。
トップ、ナンバー2のいない名大社は終わりだと・・・。実際にそのような声は僕にも届いていた。そんな時期での決断だった。
そこから社長とのやりとりが始まった。100%の信頼をされていたわけではない。
「もしかしたら、こいつが会社を潰すかもしれない。自分が作り上げてきた会社を他人が潰すくらいなら、解散した方がまし。」もしくは「私物化して会社をメチャクチャにするかもしれない。」そんなふうに思われていた。
お互いに意見は交わすものの、多くの場合は持論をぶつけられ、そこから前に進むのは難しかった。
社員もきっと不安だったはず。ある時、右腕となる社員とサシ飲みをした。会社の今後が話題の中心だったが、右腕は僕に聞いてきた。
「哲さんは本当に会社をやっていきますか?途中で辞めたりしませんか?」当然ある疑問だろう。僕はこれまでのこと、今回の決断のこと、多くの事を頭に巡らせながら答えた。
「大丈夫。辞めない。」「なぜですか?」
「俺は今まで何かを途中で辞めたことがない。学校も塾も部活もアルバイトも一度決めたことは辞めたことがない。30歳から始めた日記も今やってるマラソンも辞めていない。辞めた経験がないんだ。だから大丈夫だ。」
チープな論理だった。それでも説得力は持っていたようだ。
右腕は「分かりました。納得しました。」と言って、後は何も聞かなかった。それは右腕に言った言葉でもなく、自分自身に向けて言っている言葉だった。
そんな状況でも会社は動いている。自らも営業し、数字が思うように上がらないものの、組織は鼓舞していかねばならない。同時に経営計画書を作成していく。今の赤字状態からどう脱却するか。コストダウン、新商品の開発など黒字化するための道を探っていた。苦しい時間であった。
最大のコストダウンはオフィスの移転。創業以来、40年間、栄にある中日ビルにオフィスを構えていた。徐々に拡張していったため、結構なスペースもあった。そこから移転で大幅に固定費はカットできる。
しかし、40年間暮らしてきた場所を安々と離れることはトップの感情として許しがたいことでもあった。ここの説得が難航したが、最後には理解してもらうことができた。
秋頃は、社長とそのようなやりとりを繰り返しながら、会社存続に向け話し合いを続けていた。ある時、急きょ呼び出され、二人で飲むことになった。これまで一度もお邪魔をしたことのない洒落た小料理屋だった。
どんな話になるかは想像ができていた。僕自身、覚悟もできていた。どんなことがあろうと会社を守る。自信も根拠もなかったが、その気持ちだけは強かった。
社長の懸念材料は多かったと思う。一番大きな要素が会社は誰のものになるかという点。「お前は会社を自分のものにするつもりはないか?私物化しようとしていないか?」
そこははっきりと答えた。
「ありません。もし、そんな様子を少しでも感じるようであれば、クビしてもらって構いません。」自分でクビを切りだしたのは初めてだった。
これまで何度もダメ社員の烙印を押され、危うい立場を過ごしてきたが、自らキッパリ言うのは初めてだった。定かではないが、この言葉が社長の気持ちを変化させたのかもしれない。
そして、僕は11月に重要事項を決定した。冬の賞与を一切支給しないことに決めたのだ。前年も業績は悪かったが賞与がストップすることはなかった。過去も一度もなかったはず。
それを僕が決めた。ただでさえ給与が減り生活が苦しい状態でその決断は社員には本当に申し訳なかった。心が離れる社員が増えるのも予想された。
全ての現場を任されていた僕は全員の前で詫びた。
誰ひとり非難する声は上がらなかった。会社は酷い状況だったが、夏以降、誰も辞めなかった。さすがに冬の賞与の件で退職者も出るだろうと覚悟したが、その時も会社を去る者は誰もいなかった。
僕はそれが一番嬉しかった。
会社は何とかなると思えたのも、そんな仲間の存在だった。
賞与をゼロにしたことで社長は僕にすべてを任せようと決心したようだ。
(続く・・・)