
本書をどの立場で読むかは難しい。
帯に書いてある「誰もが転落予備軍」というように、自分もその立場になる可能性はある。
今の生活が先々も保証されているわけではない。
また、就職・転職を支援する立場として、
雇用を創出する場がどこまでできているのかとも考えてしまう。
若者の失業率や下流老人という言葉が話題になっているが、肝心なのはこの世代らしい。
35歳~54歳で非正規労働者が年々増え続け、2015年には780万人に上っている。
非正規労働者のうち、78.2%が月収20万円未満。
10万円未満も36.7%でとても生活できる水準ではない。
一方で人手不足に困る企業も多く、人材難が課題なのも正直なところ。
アンバランスなのは僕がいうまでもない。
うちの会社にもいろんな方が転職相談に来られる。
トントントンとなんの苦労もなく決まるケースもあれば、
本人の期待に沿えないケースもある。
残念だが、我々のような民間企業が全ての方をマッチングさせるのは現実的に不可能。
事業モデルが変わらない限り難しい。
キャリアアドバイザーは少しでも求職者の立場を理解し話は進めるが、簡単ではない。
中高年に対してはどうしても経験を求められてしまう。それが現実と言わざるを得ない。
以前の僕であれば、頑張った者とそうでない者との差は仕方ないと切り捨てたであろう。
しかし、現状を理解すればするほど、それができなくなっている。
かといって、打てる手段を持っているわけではない。
今後に向けて、「下流中年」と呼ばれる方を生み出さない流れを
作っていくしかないだろう。
新卒者や第二新卒者が見誤らない就職ができるよう、
より多くの機会を設け、仕事選びの重要性を啓蒙していくしかない。
また、自社において働くスタッフが厳しくも安心でき、
満足できる空間を作り上げるしかない。
本書の実例で書かれる会社内での陰湿ないじめや
精神的苦痛を与える労働はアホらしくて悲しくなる。
実際、そんな企業がまだまだ多いんだな。
少なくともまず自社はそれをクリアにしなければならない。
当たり前だけど・・・。
トップがそう意識するだけで、ずいぶん数字は好転するとは思うのだが、いかがだろうか。
本書を読みながら、少し前に中日新聞で連載されていた「新貧乏物語」を思い出した。
本書もそうだが、中日新聞の連載でも痛感したのが、親の役割。
虐待を含め放棄しているケースが目立つ。
結局、本人は被害者だが、世間はそう見てくれない。
満足いく教育を受けていないので、自分で判断する能力も持ち合わせていない。
本書は労働環境の劣悪により貧困の方向へ向かっていくが、
根本は同じように感じる。
環境だけの問題ではない。人災が大きな原因なのだ。
そう考えるとインフラを整備すれば解決できる問題でもなく、
一人一人の在り方が問われる。
難しくないようで難しいことは理解できる。
だが、身内も他人も含め、人に優しくなることで少しは解決できるのではと思ってしまった。
すいません。
中途半端な表現で・・・。

正式タイトルは『人間力を磨く 人間関係が好転する「こころの技法」』
以前から田坂氏は気になっていたがほとんど手に取ったことはなかった。
今回も目的もなく書店をうろつき、何気なく手に取った。
本書を読み終えて、
これが「知性を磨く」「人は、誰もが「多重人格」」の三部作であることも初めて知った。
そんな浅いレベルではあったが、気がつくとあちこちに赤線を引いていた。
気になる文章や自分が大切にすべき言葉がちらばっていたのだ。
結構な影響を受けたことになる。
僕は自分でいうのもおかしな話だが、人を苦手とすることはない。
メチャクチャ人づきあいが上手いわけでもないが、下手くそでもない。
食べもの、飲みものの好き嫌いがないのと同じで人の好き嫌いもない。
誰とでも普通に付き合えることが強みと言えるかもしれない。
もしかしたら今、僕がこの場所に存在するのはそれが大きな理由と言えるのかもしれない。
「かもしれない症候群」になってきたが、そんなふうに思うこともある。
しかし、完璧な人間でもなければ聖人君子でもない。
その辺に転がっている一人の人間にすぎない。
だが、それが何故うまく流れるのかと問われるとすれば、
本書の内容が何気ないうちに自分の中で解釈され吸収されている要素があるのだろう。
な~んて、本当は僕が鈍感人間で何も気づいていないだけかも。
自意識過剰で笑われてるかな・・・と思ってみたり(笑)。
人間誰しもエゴは存在する。
僕も時にくだらないエゴが突然現れたりする。
後で反省するのだが、全くなくなることはない。
まだまだ未熟。
本書の言葉を借りれば、
心の中の「大きなエゴ」の声に従って動く人物からは、
人間としての「謙虚さ」が伝わってくるが、
逆に、心の中の「小さなエゴ」の声に支配される人物からは、
しばしば「傲慢さ」と呼ぶべきものが伝わってくる。
自分では気づかないうちに傲慢さが伝わっているとするなら、それは謙虚さが足りないということ。
そして、自信がない証。
分かる人は全て見抜いてしまうのだろう。
結果的に誰と付き合い、誰と付き合わないかも繋がってくる。
お互いに引っ張り合う面とその逆が存在するわけだ。
素直になることで解決する問題も多いだろう。
どんなに年齢を積み重ねても、人間を磨き続けなければならない。
終わりがないはず。
むしろ年を取ることで余計なエゴも生まれやすくなる。
そうならないためにも「小さなエゴ」で曇ってしまう「心の鏡」をいつも磨かなければならない。

本書の帯には、「全国民に問う、衝撃の結末。」
「大衆社会の本質を衝いた寓話的『警世の書』」
なんて過激なことが書かれている。
事実そう。本書を読むとそう感じざるを得ない。
「平和とは何か。愚かなのは誰か。」
なんてことも書かれている。
確かに僕は愚か者だが、ここに書かれている次元ではない。
比べ物にならない小さな存在に過ぎない。
しかし、そんな小さな存在が大きな群れとなし動き始めたら、相当な愚かにはなる。
世の中そんなもんだ。
本書は人生の大先輩が
「山田さん、これは絶対読んでおいたほうがいいよ。」と薦めてくれた。
この類のベストセラーにはあまり興味を示さないので、
きっと薦められなかったら読むことはなかっただろう。
話題になっていることも知っていたが、手に取ることはなかったと思う。
結果、読んでみて良かった。
とてつもない恐ろしさが体を包んできたが、そう感じた。
三戒が何を示すのか、スチームボートがどこの存在なのかは容易に想像できる。
容易に想像できる分、恐ろしさは増す。
これは著者である百田氏の戦略にいとも簡単に乗るカタチだが仕方ない。
素直に受け止めるしかないだろう。
僕は政治的なことをブログに書くつもりはない。
会社に支持する政党があるわけでもない。
政治家と仲良くなって、なんらかのメリットを会社に享受できるのであれば別だが、
そんなものはない。また、期待もしていない。
あくまでもフラット。
しかし、個人としては考えなければならない。
どうしていくべきが正しい判断かを・・・。
今日は偶然にも参議院選挙投票日。
愛知県も何人もの方が立候補している。
中にはお会いした方もみえるが、そこもフラットに考えたい。
さて、どんな一日になるだろう。
あれっ、書評とはズレてしまったかな・・・(笑)。

映画絡みのブログが続く(笑)。
とても実話とは思えないメチャクチャな世界。
相当デフォルメしているとは思うが、これが警察の実態だとすれば許されるものではない。
組織ぐるみで否定するのもうなづける話だ。
権力に溺れる姿は傍から見れば滑稽だが、本人からすれば何の狂いもないのだろう。
2月に観た「ブラック・スキャンダル」のFBI役も同じ。
そう思うと単純に映画を楽しめばいい。
その点、主役である綾野剛氏演じる諸星刑事の様変わりぶりは実に面白い。
真っ直ぐな柔道選手から徐々に性格までも変わっていく過程だけでも映画を観る価値はある。
あまり書いてしまうとネタバレになるので控えておくけど。
綾野剛氏の演技は賛否両論あるが、僕は個人的には天才じゃないかと思えてしまう。
その驕った姿、ラリッた姿も含め見事。
その関係に詳しいわけでもないが、もっとも注目すべき俳優の一人ではないだろうか。
「64 ロクヨン」の佐藤浩市氏とは180度異なる刑事役を演じ切っている。
ロクヨンの綾野氏も良かったけどね。
映画を観終わった後はどんよりと体を包んでいた。
それは警察の醜態に呆れたわけでも、映画が重かったわけでもない。
どちらかといえば娯楽映画に近いが、体はどんよりしていたのだ。
理由はやはり人が堕ちていく姿に引き込まれるものがあったのだろう。
結局、悪い事をすれば人はダメになるということ。
どんな世界であっても正しいことを正しく行わないといつかは痛い目に合う。
権力に溺れるというのもそういうことだ。
知らず知らずに自分自身もそうなっている可能性はある。
全てを自分事として捉える意味はこんな点にもあるのかもしれない。
本作品にそんなメッセージが込められていたわけではないだろうが、
僕の印象はそんな感じだった。
みなさん、気をつけましょうね(笑)。
そうそう、この映画には名大社の新人ヤマゾエがエキストラで出演している。
本人もブログに書いている通り警官役。
出演シーンを見逃してしまったかと思っていた終盤、ばっちり映っていた。
演技らしいこともやっていた。
「お~、なかなかやるじゃないか・・・」
と思うと同時に羨ましさも感じた。
あんな現場に立ち会ってみたいと・・・。
色んなことを教えてくれた映画。
閉館前のピカデリーで観れたのもいい思い出になるだろう。

昨日に続き映画ネタである。
先月までの日経新聞「私の履歴書」は元東宝社長の松岡功氏。
少し前のブログにも取り上げたので、今回が2回目。
ブログネタに困っているわけではない。
興味深く読んだ一か月だったので、その内容に触れてみたくなったのだ。
松岡氏が東宝に入社したのは映画全盛期。その後、斜陽時代を乗り越え今に至っている。
日本映画は僕が大切にしたい分野であり、少なからずその動向に関心を示す。
昨日のブログでも書いたように映画館の在り方も時代と共に変化している。
今思えば不効率な象徴として、チケット販売窓口と劇場入り口のモギリの存在がある。
僕がアルバイトしていた学生時代は一つの映画館に隣接しているのが一般的。
忙しいのは映画の始まる少し前の時間帯だけで、あとは暇な時間帯だった。
上映中にお客さんの入場はあったが、映画の途中に入ってくる人はごくまれ。
今の時代なら入場できないであろう。
おおらかと言えばそれまでだが、そのためにずっと人を配置していた。
僕は忙しいわずかな時間を終えるとずっと小説を読んでいたと思う。
チケット窓口はお金を取り扱うので、正社員が配置されていたが、
仕事のボリュームは僕とさほど変わらない。
お金の計算はあるとはいえ、それほど忙しくはない。
シネコンになり人件費の圧縮をするのは当然と言えるし、
1000名を超える席数の映画館も不効率。
年に数回の満席ぐらいなら、シネコンで複数の劇場で流した方がいいだろう。
昔は(30年前の学生時代)、邦画はまず2本立てだった。
洋画もこの地区は2本立てだった。
一度映画館に入ると4時間は拘束された。
気軽の映画を観る頃ではなかったのかもしれない。
それが時代を見誤り、映画の低迷に繋がったのだとも感じる。
その後、単発放映となり、シネコンが増えたことで観客動員数が戻って来た。
そこも含め映画をどうマーケティングするかで市場そのものが変わってしまうのだろう。
現在、映画会社の中で東宝が一人勝ちしているのも、松岡氏の「私の履歴書」を読めばよく分かる。
古い価値観では乗り切るのは難しいのだ。
時には不動産業やタレント排出企業にもならなければならない。
それが結果としていい作品を残す手段となる。
必要以上に映画に拘らなかった松岡氏だからこそ、
乗る越えられる難局があったのだろう。
それにしても蛙の子は蛙である。
世の中のファミリービジネスが今でも大部分を占めるのは今回の連載だけでも十分理解できる。
いずれ松岡修造氏も東宝に入るのだろうか。
多分、それはないだろうが、彼の持つ才能は本人の努力以外にも存在する。
そのパフォーマンスを含め血もあるのだろう。
映画を振り返るにも企業経営を知るにも今回の「私の履歴書」は勉強になった。
昨日6月30日を持って、名古屋駅前にあるピカデリー1.2が閉館となった。
これは中日本興業が運営する映画館。
7月15日にはミッドランドシネマ2がシンフォニー豊田ビルにオープンするので、
それほど大した問題ではない。
このオープンの内覧会の招待状がなぜか僕に届いたので顔を出すつもり。
新しい映画館が誕生するわけだから喜ばしいはずだが、
その一方でちょっと寂しかったりもする。
僕がずっとお世話になってきた映画館の名称が消えてしまうのだ。
知ってる方も多いが(そうでもないかな)、
僕は学生時代、ずっと名古屋駅前にある映画館でアルバイトをしていた。
その頃、映画館の名称は全て異なっていた。
僕の所属はロキシー劇場。
他にはグランド劇場、アスター映劇、セントラル劇場、駅前シネマ、シネラマ名古屋、ピカデリーと、
どういった理由かはわからないが、いかにも映画館という名が跋扈していた。
流す映画には明確に意味があった。
その名前を聞くだけでワクワクする時代。
一番大きい映画館は1000名を超える客席数。
それも満席にしてしまうパワー。
昨日まで掲載された松岡氏の「私の履歴書」の全盛期まではいかないが、
特別感はあったと思う。
正月にはお酒が振る舞われ、酔っ払いながらバイトした時代。
それもいい思い出だった。
昨日で閉館となったピカデリーは、そうはいっても平成9年の開業だから僕の時代とは違うが、
そのノスタルジーは変わらない。
名古屋駅前も再開発され、映画館もシネコン一色になった。
それはそれで悪くないが、懐かしさと寂しさもあり、閉館前に顔を出した。


映画館にはそれを記念してか、これまで上映された作品のポスターと多くのサイン色紙も飾られていた。
今でこそ再び劇場で映画を観るようになったが、
20代後半から40代にかけては映画館に出向くことは少なかった。
子供を連れていく以外は年に数本というレベルだった。
仕事が忙しく時間確保ができなかった理由もあるが、それも言い訳に過ぎない。
ビデオやDVDで済ませていた。
ここ数年は再び映画館い通うようになったわけだが、やはり映画は映画館で観るべき。
逆にDVDを借りることがすっかりなくなった。
僕の一定の価値観の形成は映画の影響によるところがあるといっていい。
生きていく上で大切な趣味でもある。
そんなこともあり、こんなブログを書いてしまった。
さらば!ピカデリー。
ありがとう!ピカデリー。

著者の服部泰宏氏の講演は何度か伺ったことがある。
また、ご本人にもどさくさに紛れて一度ご挨拶をさせて頂いたこともある。
きっと本人は記憶にないと思う。
とても真面目に書かれた本書だが、服部氏はまるでジャニーズにいそうな雰囲気を持つ。
大学の准教授とは思えないタレントっぽさを持つ顔立ちだが、
本人はそんなことを言われても嫌な気分になるだけかもしれない。
ただのやっかみですね。失礼しました。
この手の類の書籍をいわゆる学者と呼ばれる方が執筆するのは珍しいのではないだろうか。
一般的には人事コンサルや就職ジャーナリスト(そんな職種あるか?笑)が
クライアントの実態やリサーチを基に書かれるケースが多い。
だが、これはもう学問。
あとがきで著者は
「組織と人が初めて出会う『採用』という場面において、両者の良い出会いと、
お互いの発展を阻害する問題を明らかにし、その解決の方法を科学的に解き明かすこと。
そのことを通じて、『採用』という観点から、
『採用』にできる範囲の中で、より良き社会の実現に貢献すること」
と研究の目的を語っている。
一度、読んだだけでは理解できない。
じっくり考え込まないと理解できない。
僕のような大学でほとんど勉強しなかった者は付いていくのに大変。
本書の内容も同様。
それだからこそ価値があるし、学問として成立するのだろう。
主観的に捉えがちな採用論を客観的に論拠を示している点は研究者としての立場が窺える。
僕らの世界とは似て異なるものだと感じてしまった。
しかし、共感する点や学ぶべき点は多い。
まだまだ経験則や感覚で語る採用論に対して科学的な根拠に必要性を述べている。
著者の考える採用力とは
採用力=有形・無形の採用リソース(資源)の豊富さ×採用デザイン力(採用設計力・オペレーション力)
この方程式だけ見ても???が並ぶだけだろう。
本書を読めば「な~るほど!」と理解できるので、
関心のある方は是非、読んでもらいたい。
僕はこの業界に入って28年目を迎える。
その間でも採用手法やツールは大きく変化している。
本質は変わらないにしても時代の変化と共に求められるものは双方に変わってくる。
双方とは企業側も求職者側も・・・。
面倒なことにお互いに人が関与するのでロジックだけでは解決できない。
肝心要な部分で感情が表に立つ。
それはそれで悪くないと思う。
だがらいつまでたってもアナログ要素が重要だと思うし。
最近の事例で書かれていた三幸製菓やサイバーエージェントの採用手法も面白い。
通り一遍ではなく今後そんなやり方も増えていくだろう。
それによって多くの母集団の中でかき消された存在にもチャンスが広がってくるのではないかな。
僕自身ももっと学ぶ必要があるし、会社のメンバーも本書から学び取ってもらいたい。
この服部泰宏氏は7月7日に開催されるパフさん主催の
職サークルシンポジウム「真・採用論 採用力の向上は、社会を救う」にも登壇される。
今でも申し込みを受け付けているので、興味のある方は予約してはどうだろうか。
あれっ、書評のつもりがイベントの宣伝になってしまったぞ。
変なつもりはないのに・・・。
僕もこのイベントは楽しみにしているし、
今度こそ服部氏にしっかりと挨拶をして名前を憶えてもらえるようにしたい。

観終わった後、かなりくたびれた。
それだけ映画に集中していたのと親子の絆が辛い場面でしか理解できなかったのが大きい。
この映画の評価は分かれると思う。
傑作か駄作かということではない。
ハッピーエンドの映画かそうでない映画かということ。
僕は多分圧倒的に少ないハッピーエンドに一票を投じる。
それは最後の最後に感じただけで、観る者によって感じ方は異なる。
それでいいと思う。
映画は思いもよらない展開へと進んでいく。
まだ観ていない方のためにストーリーに関しては一切触れないようにしたいが、
お互いのエゴがぶつかり合うのが前編、後編通していえること。
それが問題をややこやしくさせる。
客観的な行動を描きながらも、結局のところ主観が勝り問題を大きくする。
それは被害者も加害者も同様。
理屈では分かっていてもその通りにはならない。
それが本作品見どころともいえる。
正義だけでは問題解決は難しく、そこには倫理が伴うことが必要。
この面倒な人間関係を第三者的に捉えるとそんなふうに思ってしまう。
前編でのブログでも書いたが、僕は原作を読んでいない。
以前ドラマ化もされたようだが、それも観ていない。
比較して観ると原作者や監督、脚本家が最も言いたいことが理解できるのかもしれない。
原作を読む時間はないかもしれないけど、ドラマは一度観てみようかな。
とても興味はそそられる。
相変わらず主役の佐藤浩市氏は熱い。
論理と感情を併せ持つ。
場合によっては組織にはとても面倒な存在。
しかし、それが人間らしくていい。
また、そうじゃなきゃいけないとも思う。
一点だけ腑に落ちなかったこと。
ネタバレになるので詳細は書かないが、親子関係に対する疑問。
親が子供を想う気持ちは基本、共通だと思う。
しかし、子供を殺める犯罪者も同様なのだろうか。
そのあたりのことは僕には分からない。
他人だから関係ないとはいえないんじゃないかな。
人間性じゃないかとも思ってしまう・・・。
僕と同世代の俳優陣がどっぷりといい演技をするのは嬉しい。
日本映画を支える貴重な存在。
時代背景を見れば当然といえるが、その存在感を今後も出し続けてもらいたい。
いい意味で前編、後編に付き合わされた。
それには満足していると言っていい。

「アレだったよね・・・」
こんなセリフを聞くと母親との会話を思い出す。
実家に帰省し母親と喋っていると必ずと言っていいほど出てくる言葉だ。
僕は「アレじゃあ、わからん。アレばっかり言ってるとボケるぞ。」
ときつく返すが、実際はアレとは何かは聞かなくても理解している。
きっと親子なんてそんなもんだ。
本作品でも、この「アレ」というセリフがあちこちで登場する。
日常会話の常識のようだ。
母親役の樹木希林が、息子役の阿部寛が、姉さん役の小林聡美が頻繁に使う。
これが家族の絆を証明しているかのように・・・。
それが理由ではないが、映画を観ながら母親との会話を思い出してしまった。
是枝監督の最近の作品は欠かさず観ている。
どの作品もそうだが、何となくせつなくなってしまう。
「海街diary」「そして父になる」してもそう。
「歩いても 歩いても」もかなり忘れてしまったが同じ。
そうそう、8年前の「歩いても 歩いても」も母親は樹木希林で、息子は阿部寛だった。
それも名前は「良多」で一緒。
絶対、ワザとだな・・・。
もしかして、愛知県で初めて気づいたのは僕かも(笑)。
話を戻そう。
常に家族を中心に描いているため、そんな雰囲気が漂ってしまうのかもしれない。
しかし、そのせつなさが映画を支えているのは事実だし、監督が最も表現したいことだろう。
壊れたものを修復するのは難しい。
ある程度修復したとしても完全に戻ることはない。
過去の行動を後悔し行動を改めようするが、きっと後悔を繰り返す。
主役の良多は大人になろうとし続けるだろうが、
多分、なりきれず、同じ過ちを繰り返すのではないか。
希望を抱きながらもそうなるんじゃないか。
それを母親は全てお見通し。
それがいくつになっても親から見れば子供だということ。
そんなふうに映画を観ながら、自分とだぶらせながら感じていた。
ここまで読んでもらっても、この作品がいいのかどうかさっぱりわからないと思うが、
個人的にはとても好きな映画。
こんなリズムで流れる映画が僕にとっては心地いい。
僕のような繊細な感性の持ち主は観るべきだろう(笑)。
怪しいと思われるかもしれないが・・・。
是枝作品に出演する役者も固定されてきそう。
いずれ是枝組なんて言われるのかな・・・。
それぞれが凄くはまり役だったが、僕は興信所の後輩役池松荘亮がとても良かった。
その視線の温かさがダメな先輩を救っていた。
意外と映画館が混んでいたのも嬉しかった。
若い観客が少ないのは残念だが、
こういった地味な作品が多くの方に観られるのは日本映画にとってはいい流れ。
この手の作品で外国映画に立ち向かってもらいたい。

少なからず業界に関わる者として読んでおいた方がいいと思った1冊。
タイトルから推測すると著者がフジテレビを批判対象として綴ったかにみえるが、
そうではない。
元フジテレビの社員として愛着を込めて、その低迷ぶりを書いている。
そんな意味では客観的な見方というよりは
主観的な見方で書いているとも捉えられる。
フジテレビが辿ってきた70年代から今までの歴史を紐解きながら
栄枯盛衰を表現しているわけだが、それは僕がリアルに接してきた時代。
中学生時代に「8時だョ!全員集合」から「ひょうきん族」へチャンネルを変えたわけだし、
「おニャン子クラブ」も結構見ていた。
入社した頃は「東京ラブストーリー」ら月9のドラマにもはまっていた。
名古屋では東海テレビにあたるわけだが、フジ系の番組を好んで見ていた。
単純に面白かった。
それが本書で書かれているフジテレビの全盛期。
社員が大部屋で一体感を出し、
若手も中堅も自由にその権力に捉われずに番組を作っていた頃。
これはあくまでひとつのテレビ局の話だが、
すべての業界や企業にも当てはまるのではないか。
著者がいうように自分たちを一流と意識した時点で顧客視点はなくなり、
競合にも軽んじた扱いをしてしまう。
最近、報道される大手企業の不祥事も同じようなことが言えるのかもしれない。
内向きな組織になった時点で健全な競争を捨ててしまうのだろう。
誰も意識せずに・・・。
時代背景が理解できるだけに、
この凋落ぶりを他人の事として見るわけにはいかない。
いつ何時、自分たちがそんな立場にならないとも限らない。
業界トップでもないし、
世の中に話題になるような大きなことを手掛けているわけでもないので、
そんな心配はする必要がないかもしれない。
しかし、反面教師として学ぶべき点はある。
会社を一定規模に持っていくことは必要だが、
身の丈以上の規模にしてしまうと悲しい現実が待っている。
それは経営者の器によるので一概には言えないが、
会社が堕ちていく背景には組織が組織として
機能しなくなる規模的な分岐点も存在するのではないだろうか。
本書を読みながらそんな点を感じてしまった。
今後、フジテレビが復活するかはわからない。
しかし、身近なところでいえば、東海テレビでお世話になっている方も多い。
個人的な感情として、このまま停滞してもらうのは困る。
テレビをほとんど見なくなった僕が語るには説得力はないが、そんなふうに思う。
復活する日を祈りたい。