ふと手に取った本書。
たまには知識人の考え方を聞いておくことも必要。
解剖学者、脳科学者、批評家の共通点は3人とも東京大学卒業ということ。
それが理由で対談が行われたわけではないと思うが、
普段の生活では出会うことのない方の話は貴重。
僕にも東大卒の知り合いはいるが、ほとんどがビジネスマンだし・・・。

本書は日本社会の歪みを様々な視点で論じている。
歴史、戦争、憲法、天皇、税金、地震などテーマは様々だが、
たまたまテーマが複数に及んでいるだけで内容的には一貫している。

ここで感じるのはやはり教養の必要性。
教養がなければ深く考えることもできないし、日常に疑問を抱くこともない。
僕は残念ながら普段、どうでもいいことばかりに頭を悩ませ、大局的に物事を捉えることは少ない。
時々、ハッとさせられる難題を振られ、ドキマギしながらあぶり出すのがやっと。

自分の中での倫理観に基づき行動しているに過ぎない。
もしかしたらそれがあるだけまだマシなのかもしれない。
自分の判断軸を持たないと世の中に流され、なんとなく嫌だと感じることを受け入れてしまう。
それが本書でいう居心地の悪さに繋がっているのではないか。

この社会で生きていくには一定のルールに従う必要がある。
それは納得するかしないか関係なくルールはルール。
ルールは破るためにあるというバカもいるがルールは守るもの。
それがおかしいと思えばルールを変えるだけのこと。
もしくは表面的に従うだけのこと。

必要以上に縛られると苦しくなる。
だから僕はできるだけ自分を解放し、さらけ出す。
そうすることで縛られることは減り楽になる。
他人の目も気にしなくなる。
完璧じゃないけど・・・。
そんな点でいえば、僕はさほど社会に居心地の悪さを感じない。

しかし、それは昔からそうだったわけではない。
中学、高校の頃は結構、抑えつけられたと感じるし、
本当に解き放たれたのはこの10年くらいじゃないか。
開き直って生きられるようになってからだと思う。
この先、舞い戻る可能性もあるが、意外とそれって難しいのかも。
他人に思いやりを持ちながらも、もっと自由になれたらいいね。

本書には日本語の難しさについても論じられている。
「私」から「俺」へ変わるタイミングとか。
僕はブログでは「私」でもなく「俺」でもなく、
もちろん「オイラ」や「ワシ」でもなく「僕」で通している。

それが一番自然に感じるから。
講演なんかは使い分けるけど。
それもちょっとしたこだわりかもね。

本書は何かを解決してくれるわけではない。
疑問を投げかけるだけ。
ただそれをキッカケに高い視点を持つことはできる。
誰もが生きやすい世になってほしいだろうし。