これからも前向きに 名大社会長ブログ

「創業300年の長寿企業はなぜ栄え続けるのか」を学ぶ

一昨日の金曜日は僕も所属するFBAA(日本ファミリービジネスアドバイザー協会)
定例セミナーが行われた。
僕がファミリービジネスアドバイザーの資格を取得したのは2年前。
月日の経過は早い。
現在は第4期の方が資格取得に向け学ばれている。

今回のセミナーのスピーカーはグロービス経営大学院の田久保義彦氏。
このセミナーの基になっている書籍「創業300年の長寿企業はなぜ栄え続けるのか」は
以前にブログでも紹介した。
知人が共同執筆をしていることもあり、馴染み深い。
ファミリービジネスを基本にしているが、どちらかといえば経営戦略の要素が強い。
それが僕には却って興味深く、今回の講演も自身の会社の目指すべき方向を含め大きな学びとなった。

講演の内容は以前のブログから想像してもらいたいので、ここでは多くを語らない(笑)。
この書籍に書かれていることも僕の中でかなり抜け落ちているので、
振り返りとしては十分であったし、何より新たな気づきが多かった。

それは僕がファミリービジネスアドバイザーという立場よりも一人の経営者として気づかされたこと。
名大社は同族企業ではないが、そこで重要視される価値観は繋いでいく必要がある。
同族の方がやり易いのは事実だが、そうでなくともできるはず。

今回の講演では岡谷鋼機さんや月桂冠さんの例が随所に盛り込まれ、
そこに田久保氏の調査結果から考察された鋭い経営的視点が述べられた。
経営にとって「倫理観」が重要なのは僕も常に思うところだが、
ビジネススクール的な見方で倫理観や神棚が語られたことはちょっと意外。
僕が学んでいた頃はもっとロジック主体で人間味が溢れる要素は少なかったのではないかな。
今の方が断然いいけど・・・。

企業が長く栄えるためには
・自社は何者なのかを見定める
・あくまでも謙虚に、しかし、前向きに
・当たり前のことを当たり前のように積み重ねる
・成長のための成長ではなく、継続のための成長を

この点が重要。

今回、田久保氏の講演を初めて拝聴したが、まるで講演者のお手本。
上手いし面白いし分かりやすい。
常にテキトーな講演しかしない(できない)自分にとって遠い存在だが、
少しでも近づきたいと思ってしまった。
おこがましいけど・・・。

そして、この日はもう一つ感動的なことがあった。
ジャ~ン。

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このグラフィックレコーディング。
クリエイティブファシリテーターの山田夏子さんが田久保氏の講演を聞きながら、
模造紙にこのようなイラストを描いてく。
スゲエ~。
単純にメモを取るだけでも大変なのに、こんなふうにまとめてしまうとは・・・。
それにメチャクチャ分かりやすい。

議論やワークをホワイトボートに書くことはよくあるが、
ここまでできたら湯水のようにアイデアが浮かびそう(笑)。

セミナー後の懇親会でご一緒できたのも光栄。
いろんな種類のワインも美味しかった。

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来週は久々にファミリービジネス向けの講演も行うので、それに向けてもいい勉強になった。
ありがとうございました。

「現場力を鍛える」を学ぶ

先週はトーマツイノベーション主催のセミナーに参加。
ローランド・ベルガー会長の遠藤功氏の講演「現場力を鍛える」を拝聴した。
遠藤氏の著書は「現場力を鍛える」が有名だが、僕は読んだことがない。
少し前に「経営戦略の教科書」を読んだが、それほど感銘は受けなかった。
大変失礼な言い方になってしまうが、
すでに理解していることばかりで目新しさを感じなかったのだ。
ブログにも取り上げなかった。

すいません。
大してできてないくせに生意気なことを言って・・・。
経営戦略を学ぶ前なら、もっと感動したとは思うけど・・・。
すいません。

今回、初めて直接話を伺ったのだが、
とても理解しやすく、その話しぶりも大変勉強になった。
結論から言えば、現場の感度を活かす企業が「微差力」を生み、
継続し積み重ねることで決定的なビジネスの差を生むという。
そのためにはまず大戦略(グランド・ストラテジー)を描く必要がある。
個別の戦略では意味がなく上位の戦略。

そもそもそれができていないじゃないか・・・と反省(苦笑)。

そして、自立分散型組織への転換が現場力を活かすことになる。
スーパーのイオンやイトーヨーカ堂の本部主義(管理中心)と
ヤオコー、オオゼキの個店主義(個々で考える)の例が分かりやすかった。
スーパー市場が縮小する中で、伸びているところとそうでないところの違い。
あくまでも一つの例に過ぎないが、多くの業界でいえること。

そこに「闘う集団」として戦闘能力を強化する。
これが今の経営において大切で、現場力の重要性を明確にしていた。
現場力を有効的に活かした例として、加茂水族館や
JR東日本テクノハートTESSEIを挙げられたが、こちらは単純に面白く参考になった。

現場力を鍛えるにはエンパワーメントも大事だが、それだけでは機能しない。
「現場の感度」を引き出す「本社の感度」が重要。
現場から力を発揮するのはボトムアップの世界だが、
そこに至るための政策はある意味トップダウン。
トップが現場に耳を傾けるための力量と支援が必要。

まだまだできているようでできていないことが多い。
現場のアイデアを簡単に否定してしまうのも問題。
これば僕自身の問題として捉えねばならない。

僕も営業を離れ随分と経つ。
徐々に現場のことに対して鈍くなっているのも事実。
自分ではその感覚がなくなるのは怖くて仕方ない。
かといって、今、営業に戻るのもナンセンス。
いわゆる「本社の感度」というものをどう鍛えるかが求められている。
「現場力を鍛える」ためにトップがやるべきことは多そうだ。

やっぱりそうなるか。ランニング日記1605

1年ぶりに目標達成した4月。
連続で目標達成できれば本物である。
それでこそランナーを名乗る資格がある。
僕の周りのランナーは100kmどころではなく
200km位を当たり前のように走っているのだから・・・。

走ることを基本とした生活スタイル。
暴飲暴食なんてしない。
夜11時過ぎにラーメンを食べて喜んでいるバカな行為はないはずだ。

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バカな行為はその夜だけで済めばいいのだが、翌日に影響を与えるのが常識。
胃もたれ状態の二日酔いで走るほど危険な行動はない。
僕はそこまで愚かではないようだ。

しかし、こういった行動の日々が目標達成を遠退け、
言い訳の日々を作っていることは誰しも想像するであろう。

はい、その通りでございます。
昨年5月は100km以上走ったのだが、先月は全く目標に届かず66km。
1966年生まれの50歳だからこれでいいじゃないかとは誰も思わない。
そんな都合のいい解釈は僕よりも走っていないライバルだってしないはずだ。

走るモチベーションを維持するのはなかなか難しいですね。
今更言うことでもないけど・・・。

それでも5月はそれなりに体は動かした。
全く上達しないゴルフも珍しく2回ラウンドした。
まあまあ、走ったね。

そして、久しぶりに御在所岳に登山もした。

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かなり勾配のある登り坂だったが、へこたれることなく登り切った。
マラソンとは違う筋肉を使うが足腰は十分鍛えたと思う。
もちろん、その距離はカウントしていない。
飲んだくれてぐうたらな生活をしているだけではなく、それなりに全身運動はしているのだ。
だからこそ今でもこのスマートな体型を維持している。
誰も見たことないから言えるのだが、きっとそのはずだ(笑)。

まあ、そんなことは言っても目標未達成には違いない。
きっと今月も来月も同じような成績しか収められないと思うが、
一応、目標に向けては頑張っていきたい。

東京のライバルはともかく名古屋のライバルはどうしてるだろうか。
これからどんどん暑くなる季節。
目標は気にしながらも体調管理に気を遣いながら、
走っていきたいと思う6月初旬である。

食べ物のはなし 円頓寺シリーズ その42

円頓寺に戻ってきました。
こののどかな佇まいが落ち着きます。

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喧噪とした東京もたまにはいいですが、やはり田舎者はこちらの方がお似合いです。
那古野から円頓寺商店街に向かう途中にある「鈴音」さんに行ってきました。

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とてもひっそりしています。
お店の前を通る人は休業日だと勘違いするかもしれません。
言い方は失礼ですが、あまり商売気を感じません。
「大将、もっとヤル気出してよ!」と思わず言ってしまいたくなります。

たまに顔を出すと
「山田さん、全然来てくれないじゃないですかあ~。お店、潰れちゃいますよ~。」
とその瞬間だけ、ヤル気を見せるのです。

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お昼のランチ時です。この時もとても静かでした。
メニューはありません。
1種類のランチ(多分・・・)があるだけです。
注文をする必要もありません。勝手に出てきます。

ランチ 1000円

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まずはまぜご飯と前菜が登場します。
このまぜご飯なかなかいけます。
ペロリと平らげることができます。
しかし、当然ですがこれがメインではありません。
メインはこちらです。

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十割蕎麦と二八蕎麦の2種盛りです。
日によって蕎麦は変わります。
蕎麦の原産地もその都度変わります。
大将のこだわりが垣間見えます。

この日は15日間で13回蕎麦を食べている愚か者副本部長と呼ばれる蕎麦達人と一緒でした。
蕎麦に関してはなかなかうるさい方です。
そんな方ですが、思わず
「おっ、これはいいぞ。なかなか、やるじゃないか。」
というセリフを吐いていました。

どうやら美味しさを表す表現は日本国内共通のようです。
僕はどっちが十割かも分からなくなっていましたが、美味しく頂くことができました。
蕎麦達人ではないので、それでいいのです。

「鈴音」さんは基本は蕎麦屋です。
ここまでの内容ではとてもヒマそう感じですが、決してそうではありません。
名誉回復のために言っておきますが、夜はかなり繁盛しています。
完全予約制で3500円のコースのみという強気の商売です。
早めに予約しないと週末は取れません。

「山田さん、全然来てくれないじゃないですかあ~。お店、潰れちゃいますよ~。」
の言葉なんて、微塵も感じることはできません。
コースの内容も充実していますし、日本酒の種類も多いです。
大将の気分がいい時は多めにお酒を注いでくれます(笑)。

だからでしょうか。
お昼時はどうやら力を抜いているようです。
蕎麦は手抜きをしていませんので、
まだ行ったことのない方は、まずランチタイムがおススメかもしれません。

ちょっと宣伝気味になってしまったので、
次回、お邪魔した時はお酒をこっそり余分に注いでほしいと期待します。

ごちそうさまでした。
円頓寺シリーズはまだ続きます。

社長になるまでのこと <再掲2>

多分、うちの会社に詳しい業界の方は思っていたと思う。
トップ、ナンバー2のいない名大社は終わりだと・・・。
実際にそのような声は僕にも届いていた。
そんな時期での決断だった。

そこから社長とのやりとりが始まった。
100%の信頼をされていたわけではない。
「もしかしたら、こいつが会社を潰すかもしれない。
自分が作り上げてきた会社を他人が潰すくらいなら、解散した方がまし。」
もしくは
「私物化して会社をメチャクチャにするかもしれない。」
そんなふうに思われていた。

お互いに意見は交わすものの、多くの場合は持論をぶつけられ、
そこから前に進むのは難しかった。
社員もきっと不安だったはず。
ある時、右腕となる社員とサシ飲みをした。
会社の今後が話題の中心だったが、右腕は僕に聞いてきた。
「哲さんは本当に会社をやっていきますか?途中で辞めたりしませんか?」
当然ある疑問だろう。

僕はこれまでのこと、今回の決断のこと、多くの事を頭に巡らせながら答えた。
「大丈夫。辞めない。」
「なぜですか?」
「俺は今まで何かを途中で辞めたことがない。
学校も塾も部活もアルバイトも一度決めたことは辞めたことがない。
30歳から始めた日記も今やってるマラソンも辞めていない。
辞めた経験がないんだ。だから大丈夫だ。」
チープな論理だった。
それでも説得力は持っていたようだ。
右腕は「分かりました。納得しました。」と言って、後は何も聞かなかった。
それは右腕に言った言葉でもなく、自分自身に向けて言っている言葉だった。

そんな状況でも会社は動いている。
自らも営業し、数字が思うように上がらないものの、組織は鼓舞していかねばならない。
同時に経営計画書を作成していく。
今の赤字状態からどう脱却するか。
コストダウン、新商品の開発など黒字化するための道を探っていた。
苦しい時間であった。

最大のコストダウンはオフィスの移転。
創業以来、40年間、栄にある中日ビルにオフィスを構えていた。
徐々に拡張していったため、結構なスペースもあった。
そこから移転で大幅に固定費はカットできる。
しかし、40年間暮らしてきた場所を安々と離れることはトップの感情として許しがたいことでもあった。
ここの説得が難航したが、最後には理解してもらうことができた。

秋頃は、社長とそのようなやりとりを繰り返しながら、
会社存続に向け話し合いを続けていた。
ある時、急きょ呼び出され、二人で飲むことになった。
これまで一度もお邪魔をしたことのない洒落た小料理屋だった。

どんな話になるかは想像ができていた。
僕自身、覚悟もできていた。
どんなことがあろうと会社を守る。
自信も根拠もなかったが、その気持ちだけは強かった。

社長の懸念材料は多かったと思う。
一番大きな要素が会社は誰のものになるかという点。
「お前は会社を自分のものにするつもりはないか?私物化しようとしていないか?」
そこははっきりと答えた。
「ありません。もし、そんな様子を少しでも感じるようであれば、クビしてもらって構いません。」
自分でクビを切りだしたのは初めてだった。

これまで何度もダメ社員の烙印を押され、危うい立場を過ごしてきたが、
自らキッパリ言うのは初めてだった。
定かではないが、この言葉が社長の気持ちを変化させたのかもしれない。
そして、僕は11月に重要事項を決定した。
冬の賞与を一切支給しないことに決めたのだ。
前年も業績は悪かったが賞与がストップすることはなかった。
過去も一度もなかったはず。

それを僕が決めた。
ただでさえ給与が減り生活が苦しい状態でその決断は社員には本当に申し訳なかった。
心が離れる社員が増えるのも予想された。
全ての現場を任されていた僕は全員の前で詫びた。

誰ひとり非難する声は上がらなかった。
会社は酷い状況だったが、夏以降、誰も辞めなかった。
さすがに冬の賞与の件で退職者も出るだろうと覚悟したが、
その時も会社を去る者は誰もいなかった。
僕はそれが一番嬉しかった。

会社は何とかなると思えたのも、そんな仲間の存在だった。
賞与をゼロにしたことで社長は僕にすべてを任せようと決心したようだ。

12月上旬、急に社長宅に呼ばれた。
経営資料を携え最終的な詰めを行った。
そして、その時に僕が正式に会社を引き継ぐことが決まった。
驚くほど呆気なかった。

対外的には翌年の株主総会後だが、
実質は12月21日より全ての決裁権を自分が持つことがその場で決定した。
社長は体調を崩していたこともあり、自ら対応を早めに決断したのだろう。

さすがにその夜は眠れなかった。
布団の中にいても目が冴えるばかりだったので、
当時放映されていた「坂の上の雲」の録画を観た。
この世界に比べれば、まだまだ小さい事じゃないかと自分を納得させていた。
そんな気持ちで自分を維持しようとしていた。
寒さが堪えたのか、結局、風邪を引いてしまったことを記憶している。

とりとめなく書いてきたが、これが僕が社長になるまでの経験してきたこと。

帝王学を学んだわけでもなく、経営者の準備をしてきたわけでもない。
それでも会社は成り立つ。会社は毎日動いていく。
その年の大晦日の日記にも書いていたが、
この一年は僕の人生の中で最も変化の激しい、スピードの速い一年だった。
何年分かを一年で過ごしてしまったようだった。
トップを任される一年前に飛び込み営業をしている奴なんてあり得ない。

ここで会社以外のこと少し・・・。

社長を引き継ぐ事が決まった時、僕は実家と嫁さんの実家に挨拶に出向いた。
僕の実家は岐阜で農業も含め自営をしている。
僕は三人兄弟の長男。
父親はいずれ息子は戻ってくると期待していたと思う。

僕が実家に挨拶に出掛けたのは、その期待を完全に裏切ることを意味していた。
僕自身、そんな感じで思っていた。
僕は父親に、これから会社をやらなければならない。
家業はやれないとそんな様な話をした。

父親は「会社のことはよくわからんけど、あんばようやってちょ。」とだけ言った。
”あんばようやってちょ”と言うのは岐阜弁で、”しっかりやってくれ”という意味。
その言葉を聞いて僕は安堵とし父親の大きさに感謝した。

そして、嫁さんの実家にも挨拶に行った。
その一年前、義父を癌で亡くしていた。
僕は義母にこれまでの事を話した。

「これから会社を任されることになりました。
家庭の事は今以上にないがしろにするかもしれません。
もしかしたら、最悪の状況に引き込んでしまうかもしれません。
嫁にも子供にも迷惑を掛けるかもしれません。」

そんな僕の言葉に義母は言ってくれた。
「天国に行ったお義父さんは喜んでいると思うよ。
哲也さん、何も心配することなく頑張ってください。」と・・・。
僕は涙が出るくらい嬉しかった。
結局、僕は周りに支えられて生きているに過ぎない。

支えてくれたのは嫁さんの存在もあるだろう。
不思議なことに僕がどんな状況、立場であろうと何も変わらなかった。
単純に僕に関心がないだけかもしれないが、僕が役員を降格になった時も、
給与が半分になった時も、社長になる時も何ひとつ変わらなかった。
「あら、大変、どうしましょ~。」
と呑気に言うくらいで態度はいつも同じだった。
そんな態度に僕は救われたのかもしれない。

長々と書いてきた「社長になるまでのこと」。
思い出したままを感情的に書いているので、どこまで伝わったかわからないが、
今、こうしてこんな事を書けるのも幸せなこと。
改めて充実した毎日に感謝しなければならない。

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以上が2009年12月までのこと。
完全な手抜きブログだが、ご理解いただきたい。
明日からは愚か者ブログをしっかり書いていきます(笑)。
引き続きよろしくお願いします。

社長になるまでのこと <再掲>

明日、第47期株主総会を開催する。
この時期を迎えると思い出す。
こんな時を過ごしてきたことを僕は忘れてはいけないと・・・。
また、会社のメンバーも知っておかなければならない。
特に「丸の内チルドレン」はそう。
そのために2年前のブログを再掲したい。

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今でも時々考えることがある。
もしあの時、自分が引き受けていなかったら、会社はどうなっていたのだろうかと・・・。
少なくない確率で会社の存在はなかった。
そうだとすると、現在、共に働く仲間、名大社を支えてくれるクライアントやユーザー、
そして、僕がこの間、ご縁を頂いた知人やネットワークの存在もなかった。

あの時の決断は間違いではなかったと思うと同時に今、
こうして毎日を過ごせることに改めて感謝。
本日、株主総会を行い会社を任され5年目を迎える今、
いい機会でもあるので、当時の出来事を改めて振り返ってみたい。

役員を降格になったことは昨年同時期のブログに書いた。
2009年がスタートした時は悶々とした状態で仕事をしていた。
前年のリーマンショックで会社の業績は急降下。
過去一度も経験をしたことのない落ち込みを日々の営業活動の中で実感していた。

それでも会社を辞める気持ちは不思議と消えていて、
健康的な状態とは言い難いが真摯に仕事に向き合っていた。
しかし、会社の雰囲気は最悪。
退職する社員は後を絶たず、暗い雰囲気が全体を覆っていた。

組織の中心から外されていた僕は、会社を客観的に見ながらも一人黙々と仕事をする日々。
自分に課せられた仕事をこなすのみだった。
だが、自分の環境も徐々に変わり始めてきた。
社長やナンバー2にほとんど相手にされない日々から少しずつ意見を求められるようになってきた。
単純に組織が疲弊していたのが理由だったのかもしれない。

そして、期が明けた4月に営業部門を任される人事が発令された。
「何という気の変わりようだ」と僕は半信半疑でしかなかったが、
久々に部下を束ねることになり気持ちは盛り上がりつつあった。
しかし、業績の低迷は変わらない。
全く先行きの見えない時間を過ごしていた。

僕が代わる前に部門を率いてきた若手のリーダーはそれまでの態度と一変し、
あっという間に会社を去っていった。
あれだけトップに忠誠を誓い、部下に対して罵倒していた存在はいとも簡単に会社を辞めた。
その人事に納得できなかったのか、会社に愛想が尽きたのか、
先行きに期待感がなかったのかは分からないが、
僕は会社から逃げたとしか感じることはできなかった。
営業だけみれば僕よりは格段に優秀。
後輩だったためいろんな話もしてきたが、それ以降は一切に連絡を取ることはなくなった。

そして、5月のある日、数名の社員と社長宅に呼ばれ、食事をすることになった。
かなり重要な話がでることは覚悟をしていた。
一つはワークシェアリングの実施、もう一つは僕の役員への復帰だった。

役員の復帰といえば聞こえはいいかもしれない。
しかし、会社が最悪の時期にその役職は責任が重い。
しかも、ワークシェアリングの中味は半端なかった。
次長以上の役職は給与半分、出勤半分と大胆なもの。
僕の場合、給与半分にわずかな役員手当、出社は自由、
すなわち休みはなしということだった。
割の合わない仕事だった。
会社は助成金の申請をしていなかったため、次長より上の役職者の生活は厳しかった。

実際に僕も手取りの給与ではとてもじゃないが生活はしていけない。
完全な赤字。
幸いにも蓄えがあったため、貯金を切り崩しながらの生活だった。
休日にバイトをしようと真剣に考えていた。

若手社員はそこまで厳しい待遇ではなかったが、
会社に対してのロイヤリティは完全に失くしていた時期。
不安しかなかっただろう。

組織全体もギクシャクしていた。
社長とナンバー2との関係性が悪化した。
少し前から一枚岩に思えた2トップの関係が怪しくなっていた。
詳しい内容はここでは書かないが、結果的にナンバー2は役員を降り、しばらくして退職をした。
現場のリーダーを失くしたのだ。
営業部門の一つを任されていた僕が先輩を差し置き全体を仕切ることになった。

ナンバー2が役員を降りる頃、社長の会社に対する方向性が定まってきた。
高齢であった社長は自らの引退を表明し、3つの中から選択することを考えていた。
「会社の自主解散」
「会社の売却」
「社員が引き継ぐ」

「会社の売却」は社長の意に反する面もあり、選択肢から消えていた。
残すは2つ。
2つとした時点で社長の考えはある程度、決まっていたようだ。
「会社の自主解散」。
今なら社員に退職金を払って処分することができる。それが一番安全策という判断であった。
誰かに任せてもいいという話もされていたが、本意とは感じれなかった。
それに相応しい人物はいなかった。

幹部会でその話を切り出したわけだが、僕は自主解散の判断はやむを得ないと正直思っていた。
特に反対もしなかった。
トップがそう判断するのであれば仕方ないと結構冷めていた。

幹部会終了後、ナンバー2が僕を個室に呼んだ。
「哲、なぜ手を挙げない。お前しかいないだろ。」と言われた。
僕は理解できなかった。
つい数か月前まで、僕は組織から外れ、ほとんど窓際にいた人物。クビに近い存在ではなかったか。
どうしてそんなことを言われるのか当初は理解できなかった。
このブログを書くにあたり、その当時の日記を読み直してみたが、内容は酷いもの(苦笑)。
疲れた、疲れたという泣き言とトップの非難ばかり。
前向きさは微塵も感じられない。
情けない話だが健全な状態ではなかった。

しかし、それは僕だけではなく全社員が同じように感じていたのかもしれない。
もしかしたらナンバー2の一言から真剣に考え始めたのかもしれない。
それは今でも分からない。
ただその頃から、会社をどうすべきかと真剣に向き合うようになってきた。

「自主解散」という選択が本当に正しいのか。
一生懸命働いている社員はどうなる?
名大社を信頼してくれるお客さんを自分勝手な論理で裏切っていいのか?
本当にそれが正しいのか、
自分の行動はそれでいいのかと何度も何度も自問自答した。

次第に明確になってきた。
そして、答えがはっきりした。
「自分がやる」という解だった。
会社全体にそんな雰囲気が少なからずあったと自分勝手に感じていた。
それが後押ししてくれた面もあるかもしれない。

だが、その判断は自分に最大のリスクを与えることになる。
現時点で業績は最悪。売上も前年比3割である。
3割ダウンではない。
ワークシェアリングを実施しているとはいえ、赤字が続いていた。

このままの状態であれば、いずれ破たんを招くことになる。
無借金企業といえどもあっという間に債務超過に陥ることもある。
尊敬する先輩にも揶揄された。
「どろ船の船長になるのか?」と・・・。

(続く・・・)

オフィス移転を考える

事務所が随分と手狭になってきた。
オフィススペースもこれ以上人数を放り込むと快適な仕事環境を作るのは難しくなる。
セミナールームもちょっとした勉強会や講習を行うと満杯。
先日行った全体の研修もかなり窮屈に感じた。

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人材紹介の事業も忙しくなってきたため、
応接もかなり前から予約しておかないと使えないことも多い。
これで会社が伸びていなければ大問題だが、おかげさまで今のところは順調。
あくまでも今のところです(笑)。

6年前、この丸の内に移転をしてきたのははっきり言って「後ろ向き」の移転。
固定費を抑えることを目的とした移転だった。
しかし、今回は「前向き」の移転を検討している。
多分、秋から年末にかけてオフィスを移転することになる。
はっきりした段階で改めてご報告したい。

あれこれ考えることは多い。
せっかく「前向きな」移転をするのだがら今のオフィスにはない空間にしていきたい。
僕が考える新しいオフィスの条件はこの3つ。
★会社に行きたくなるオフィス
★イノベーションが起こる(起こりそうな)オフィス
★稼げるオフィス

ざくっとした表現だが、こんな空間を目指していきたい。

今後、オフィスの在り方は変わってくるだろう。
いずれ会社に出社すること自体ナンセンスになってくるかもしれない。
だが、同じ会社のメンバーが顔を合わせるのなら、
よりよいコミュニケーションが図れる場としたい。
これ以上、よくなると仕事しないのではないかという不安もあるが、
それでも成り立つ会社ができればそれは理想。
絶対にあり得ないけど・・・(笑)。
よりフラットで風通しのいい場を作っていきたい。

そして、個人的に考えていることが一つ。
思い切って社長の机を失くしてしまいたい。
すなわち僕の机を失くすということ。
社長室を失くすということではない。
そもそもそんなものはないし、僕には必要ない。
それよりももっと前進させ社長の机を失くす。

メンバーが猛反対すれば撤回しなければならない案だが、
今はそんなことを思っている。
会社に行かないわけではない。
基本、毎日行く。嫌がられても行く。
しかし、居場所はない。
空いたスペースに座る。それでいい。
ネットさえ繋がっていればどこでも仕事はできるはず。

いきなりオガワの隣に座ったら、無意味に喋りだすだろう。
トミタの隣に座ったら、すぐに営業に出てしまうだろう。
コンドーの隣に座ったら、痩せるだろう。
おお~っ、いいことづくめじゃないか・・・。
そんなふうに今は妄想している(笑)。

セミナールームでの打ち手も増えるから、稼ぐオフィスにも繋がるだろう。
期待が膨らむと同時に不安が付きまとうのも正直なところだが、
ここは思い切りたい。
なんたって経営者に必要なのはセンスと判断力と度胸なのだから・・・。

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僕はこの机と付き合うのもあとどれくらいだろうか。
今のうちに磨いておくかな・・・。

食べ物のはなし 番外編 イタリアン

思いのほか多忙で円頓寺商店街に顔を出すことができません。
人気食べ物ブロガーとしては、
食べ物ブログを維持させるためにも他の手を打つしかありません。

この日も出張で東京でした。
ランチは軽くサクサクッといきたいところですがそんな簡単な問題ではありません。
何とかネタを捻りださなければならないのです。
そんな事を考えながら大手町の地下を歩いていました。

見つけました。
うってつけのお店を見つけたのです。
12時前だというのに既に行列ができていました。

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午後の予定に若干の余裕があったことから迷わず並ぶことにしました。
大手町ビルにある「リトル小岩井」さんにお邪魔しました。

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お洒落なパスタ屋さんといいたいところですが、そうでもありません。
一般的にパスタ屋さんのイメージはお客さんの8割が若い女性かと思います。
しかし、そんな気配は見られません。

並んでいるのはオジサン、オジサン、オニイチャン、オジサン・・・。
こんな感じです。
とても東京とは思えません。
あと数人でお店に入れそうな時に店員さんが聞いてきます。

「メニューはお決まりですか?」
「いいえ、メニューを見せてください。」
ほとんど常連さんで並んでいるオジサンたちは当たり前のように注文していきます。
手渡されたメニューを眺めます。

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「そうか、こうくるか。ここは醤油バジリコなんていいな。」
と頭によぎります。
しかし、ブログネタを考えた場合、あまりいい選択とはいえません。
「すいません、イタリアン大盛りでお願いします。」
ベストと思えるような注文をし、
「これでいいブログが書けるぞ。」と頭の中でイメージします。

しばらくすると「次の方、空いてる席へどうぞ!」と促されます。
ほとんどが一人客です。
4人席も一人客の相席です。
みんな無口でじっとパスタが届くのを待っています。
食べている人は何も喋らず黙々と食べ続けます。
まるでそれがルールのように思えてきます。
案の定、店内は100%男性客です。お洒落な女性は一人としていません。

「おまちどうさまです。イタリアン大盛りです。」
イタリアン大盛 600円

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「お~、これがここのイタリアンか。名古屋じゃあり得んな。」
その姿を見てこっそり呟きます。
メニューを見た段階で何となくイメージはできましたが、そのギャップに驚いたフリもしてみるのです。
「ほ~、これが東京本場のイタリアンか。なかなかやるじゃないか。」
と心の中で呟きながら黙々と食べ続けます。
無造作に置いてある粉チーズもかけてみます。
きっと名古屋で食べるイタリアンの方が粉チーズはマッチすると思われます。
しかし、こんな経験も必要です。
新しい出会いとなるのです。

最後までこれがなぜイタリアンかは解明できませんでした。
厳密にいえば、そのつもりもありませんでした。
いい経験をさせてもらいました。
東京は広いですね。

ごちそうさまでした。

「古事記」を学び、そして飲む

今年、僕が立てた目標の一つに”「無用の学」を学ぶ”というものがある。
それはビジネスや経営に直結する「有用の学」ではなく、
歴史や文化などビジネスに直結しない学びを得る場を作ることをいう。

今回、それに相応しい機会を頂いた。
僕の50歳の誕生日に行われた「古事記に学ぶ集い DAY2」がそれ。
DAY1は4月9日に行われ、その第2回目が一昨日の日曜日だったのだ。

今回の勉強会に至るまで、僕は古事記を読んだことがなかった。
「古事記」と「日本書紀」の違いも知らなかった。
勉強会参加者の中ではとてつもなく低いレベル。
初回に向けマンガの「古事記」を初めて読んだくらい。

DAY1は「NHK 100分de名著」を題材に世界と人間の誕生とヤマタノオロチまでを学んだ。
僕は付いていくのがやっとだったが、温かいメンバーに恵まれ、
有意義かつ楽しい時間を送ることができた。

そして、一昨日がDAY2。
今回のファシリテーターは僕のご近所さんでもあり、歴史に造詣の深いキヌガサさん。
前日の深夜3時までアイデアを練っていたという。
その甲斐があって中身の濃い内容となった。

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前回の振り返りから始まり、因幡の白兎の道徳性、
スサノオとオオクニヌシの違い、出雲の国譲りまで多岐に渡るもの。
正解のない世界から正解を導く議論をチームごとに行った。

「古事記」を学ぶにつれ、日本人としての素晴らしさを感じると共に
神や天皇の在り方を知ることとなった。
歴史を知ることで、当たり前のように過ごしている生活にも
繋がっていることがよく理解できる。
僕らが普段あまり考えることのない価値観も「古事記」の中に含まれている。
これは伝承していかないといけない。

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全体の議論ではいくつもの意見が出て大いに盛り上がった。
ちなみに僕らのチームも創造性が働きすぎ、
白兎は実はアマテラスだったとか、
オオクニヌシが出雲の国を譲ったのは、鴻海とシャープの関係性に近いとか、
とんでもない意見を飛び交わせてしまった。
みなさん、強引な理屈で繋げ、すみませんでした(笑)。

みなさんの意見を伺うことで自分自身の学びも深くなる。
一人で本を読んでいるだけでは理解不能なことや
思いもよらない深い思想が頭の中にストンと入ってくる。
貴重な学びだと改めて実感。

勉強会終了後は、恒例の懇親会。
僕は懇親会くらいしかお役に立てないので、今回も担当することに。

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円頓寺の「ぽろ」さんを貸し切りにして、お昼から飲むこととなった。
いやあ~、気持ちのいい晴天の日に昼から飲めるのは最高。

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美味しい料理を頂ながら、冷酒を飲み、すっかりいい気分になってしまった。
50歳の誕生日祝いとは全く関係なかったが、とてもシアワセな時間であった。

僕の場合、懇親会が目的じゃないかと言われると否定はできないが、
「無用の学」を学ぶ重要性を改めて感じることとなった。

お疲れ様でした。
6月もどうぞよろしくお願いします。

フジテレビはなぜ凋落したのか

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少なからず業界に関わる者として読んでおいた方がいいと思った1冊。
タイトルから推測すると著者がフジテレビを批判対象として綴ったかにみえるが、
そうではない。
元フジテレビの社員として愛着を込めて、その低迷ぶりを書いている。
そんな意味では客観的な見方というよりは
主観的な見方で書いているとも捉えられる。

フジテレビが辿ってきた70年代から今までの歴史を紐解きながら
栄枯盛衰を表現しているわけだが、それは僕がリアルに接してきた時代。
中学生時代に「8時だョ!全員集合」から「ひょうきん族」へチャンネルを変えたわけだし、
「おニャン子クラブ」も結構見ていた。
入社した頃は「東京ラブストーリー」ら月9のドラマにもはまっていた。
名古屋では東海テレビにあたるわけだが、フジ系の番組を好んで見ていた。
単純に面白かった。

それが本書で書かれているフジテレビの全盛期。
社員が大部屋で一体感を出し、
若手も中堅も自由にその権力に捉われずに番組を作っていた頃。
これはあくまでひとつのテレビ局の話だが、
すべての業界や企業にも当てはまるのではないか。

著者がいうように自分たちを一流と意識した時点で顧客視点はなくなり、
競合にも軽んじた扱いをしてしまう。
最近、報道される大手企業の不祥事も同じようなことが言えるのかもしれない。
内向きな組織になった時点で健全な競争を捨ててしまうのだろう。
誰も意識せずに・・・。

時代背景が理解できるだけに、
この凋落ぶりを他人の事として見るわけにはいかない。
いつ何時、自分たちがそんな立場にならないとも限らない。
業界トップでもないし、
世の中に話題になるような大きなことを手掛けているわけでもないので、
そんな心配はする必要がないかもしれない。
しかし、反面教師として学ぶべき点はある。

会社を一定規模に持っていくことは必要だが、
身の丈以上の規模にしてしまうと悲しい現実が待っている。
それは経営者の器によるので一概には言えないが、
会社が堕ちていく背景には組織が組織として
機能しなくなる規模的な分岐点も存在するのではないだろうか。
本書を読みながらそんな点を感じてしまった。

今後、フジテレビが復活するかはわからない。
しかし、身近なところでいえば、東海テレビでお世話になっている方も多い。
個人的な感情として、このまま停滞してもらうのは困る。

テレビをほとんど見なくなった僕が語るには説得力はないが、そんなふうに思う。
復活する日を祈りたい。