これからも前向きに 名大社会長ブログ

カテゴリ「会社を想う 仕事を思う」の記事一覧:

名大社半生を振り返る その23

本来、このブログは来週月曜日。
半生ブログは月末が最終回なので、計算するとあと2回。
どうしようもなく頭の回転が悪いが、とてもじゃないが、あと2回では終わらない。
え~っと、あれとこれと書くと何とか4回で終わる?
というわけで今回より週2回アップします(汗)。

「出会いは人生の宝」
これはユニー創業者故西川俊男氏主宰の経営塾「西川塾」で教えて頂いた言葉。
今も大切にする言葉だが、まさに僕はこの通り。

営業時代はクライアントや小さなコミュニティで出会いがあったが、
経営者になってからは多くの出会いが僕の宝となった。
社長時代を振り返っても大した実績は残していない気もするが、
自ら求めていった出会いは会社にとっても大きな財産なはず。

僕は食べ物も飲み物も好き嫌いはない。
人においても同様。
好き嫌いも得意不得意もない。
誰とでも普通にお付き合いすることができる。
その分、強烈な個性もなければインパクトもない。

以前、沢木耕太郎氏が山田洋次監督の作品について書いていた。
「個性がないのが個性」
ある意味、僕もそれに近い。
そうはいってもお互い合わない人はいるので、そんな人は自然淘汰された。

自ら出向いたのは経営者関係ばかりではなく、別の方面にも頻繁に顔を出した。
2010年、2011年はtwitterやfacebookなどのSNSが一気に伸びた時期。
そんなコミュニティやイベントがあると興味本位で顔を出した。

名大社の名刺を出すと結構、驚かれた。
「えっ、そんな立派な人かこんな会に来るの?」
そんな思われ方だった。

有難いことに会社の認知度はあったため、どこかの偉い社長さんと思われていた。
「いえいえ、ただのハナタレ社長です」
と真実を伝えても、
「いやいや、また謙遜して・・・」
と相手が勝手に勘違いしていた。
世間とのギャップに苦しむこともあったが、上手く利用すればいいことだった。

2010年度はわずかな赤字だったが、そこからは景気回復も伴い順調に業績を伸ばすことができた。
11年度以降は8年間は平均118%の売上成長率を維持。
過去の大きな落ち込みも乗り越えることができた。

それは僕自身の力はほとんどなく全員の力で成し遂げたこと。
グッドサイクルが回るとはそんな状況。
目の前の行動だけでは分からないが、後から冷静に判断するとそんなことがいえる。

僕はテキトーなようにみえて意外と厳しい。
規律やルールを重んじ、それを外すと許さない面もある。
今の時代にはそぐわないが、それが一定の緊張感を生み組織も上手く機能した。
緩い時は緩いが、基本は規律を大切にした。

2012年あたりからは賞与時期や年度末には一人1時間ほど個人面談も実施。
それくらいの規模感だからこそ可能だった。

その時期に前社長からの解任要求があり、以前の役員が会社に乗り込んできたが、
その頃は自分でも自信がつき始めていた。
何事もなく終えることができた。

会社も順調に伸びてきたので、2013年には久々に社員旅行に行った。
全員で2泊3日の沖縄。
海外旅行と比較すればショボいが、全員で楽しい時間を過ごすことができたのが嬉しかった。
それ以降、1年おきに九州(大分、福岡)、九州(宮崎、鹿児島)にも出掛けた。
その間は研修旅行として近江八幡や豊橋にも出掛けた。
それも僕の知り合いに学びを提供してもらう場。
出会いは人生の宝だね。

社長就任2年目からの忘年会は社員だけでなくブレーンや媒体者を招いて開催。
年々、規模も大きくなった。
賑やかな場を作り全員で盛り上げることもできた。

そんな機会が今は全くない。
それは寂しいことだけど。

続く・・・。

名大社半生を振り返る その22

社長になるまでの一年間は以前にもブログに書いているので、かなり端折った。
2009年12月(対外的には2010年5月)に僕は社長に就任した。
副社長の期間は1ヶ月ちょっと。
経営者の準備をほとんどしないまま僕は社長になった。
そんな経験があったので、今度の高井との代表交代はかなり時間を設けたつもり。

右も左も分からないトップ。
それでも前に進むしか道はなかった。
2010年の正月はこれまでの正月とは一変。
会社のこれからばかりを考えていた。

まず行ったのはオフィスの移転。
2010年3月、設立以来ずっとオフィスを構えていた栄、中日ビルから丸の内へ移った。
家賃は1/3。
赤字が続く中、固定費をできるだけ下げなければならない。

都落ち感は拭えないが、新築のオフィスビル。
それも最上階。
メンバーのモチベーションはむしろ上がった。

オフィス移転を機にブログもスタート。
自分の想いを自ら発信しようと試みた。
最初はfc2のブログ機能を使った。
継続することを目的としていくつかのルールも設けた。
せっかくなので第1回目のブログをアップ。
「事務所移転。そして、ブログスタート!」

気がつけばこのブログも12年2か月。
書いた本数は2,900本強。
文字にしてざっと2,465,000文字。
いやあ~、結構、頑張ったね(笑)。

事業は大きくは変えられない。
リーマンショックの影響は大きく、事業を成長させるには時間が掛かる。
まずは組織の安定化。
これは体制が変わり、残るべくして残ったメンバーばかり。
一体感は増した。

そして、僕は積極的に外に出た。
可能な限り人に会いに行った。
以前、このシリーズで登場した怪しい名簿屋さんがちゃんとした企業に変わっていたので、
各地域の同業他社と接点を持つことができた。

社外取締役を務める株式会社パフともこの時に出会った。
(毎日やり取りする釘崎会長ね・・・)。
今、会長を任されるFネット(ふるさと就職応援ネットワーク)も2010年5月に加盟。

新卒ナビのサーバーがダウンしたり、朝日新聞から代理店契約解除の打診があったり、
大変なことは続いたが、深刻になることはなかった。
元来、楽天的な性格かもしれない。
なんとかなるだろうと思っていた。

苦労はあったが、結果的になんかとなった。
その年に立ち上げた障がい者採用向けのイベントは5年で撤退したが、
各媒体社の信頼回復には大きく貢献してくれた。

新たな試みを行った。
思い切って新卒ナビの標準プランをFREE(無料化)したり、
パートナーと一緒に内定塾を開講したり・・・。
流行りに乗った感はあるが、チャレンジすることに抵抗はなかった。

経営者が集まる団体にも自ら参加した。
こういう団体は誘われてやむを得ず入会するパターンが多いが、自ら出向いた。
ロータリークラブ(前社長から勧められたこともあるが)、
出身大学の経営者の会、ユニー創業者の経営塾、商工会議所系経営塾など、
社長就任後2~3年は時間を許す限り関係性を作った。

訳が分からず入ったものの、10年経つと会長、副会長、
副事務局長、幹事、委員長など任されるようになった。
幸か不幸か、あちこちから責任が舞い込んできた。
しかし、それは僕には大きな財産。

こうした活動を通し人間関係が広がり、雲の上のような存在と対等に話して頂ける場もできた。
続く・・・。

名大社半生を振り返る その21

半生もすでに20回を経過した。
ありがたいことに喜んで読んでくれる方もいて、多くの感想も頂き嬉しかったり・・・。
今の若いメンバーが半生ブログを読んだところでどう感じるかは分からない。
ただの昔の話と思うだけかもしれない。
それはそれで仕方がない。

しかし、これも主観的にみた名大社の歴史。
違う視点で見れば全く違う会社像になるかもしれない。
過去は自分の解釈で事実も大きく変わる。

現段階で働き始め19年が経過しているが、この社会人生活は客観的に見てどうなんだろうか。
一般的なサラリーマン人生なのか、波乱に満ちた人生なのか。
今思えば良くも悪くも中小企業で多くの経験をさせてもらっているが、所詮東海圏内の話。
全国を飛び回ってとか、海外と交渉を繰り返してとかは無縁。
小さな世界であるのは間違いない。
その小さな世界でしか経験できないこともあったり・・・。

やばい、今月中にこのシリーズを終えなきゃいけないが、まだ10年以上残っている。
本来なら今回含め、あと4回。
ちょっとムリかも・・・。
月曜のアップだけでは終わりそうにない。

いかん、前置きが長くなった。

2008年のリーマンショックで業績が大きく崩れていった。
それはバブル崩壊ともネットバブル崩壊とも比べようにならな過去見たこともない落ち込み。
僕は独りぼっちで営業をする日々。
会社を辞めようと思い、人材紹介会社に登録するものの、らしい会社には出会えない。

仕事へのモチベーションも上がらない僕に叱ってくれた大切なクライアントもあった。
「役員降格中の話」というブログでも書いたが、
こういった有難い方のおかげで会社に留まることができた。
以前、「山田さんは人間性だけだね」と言われたように、
僕の存在価値はそれだけだったかもしれない。

気持ちを切り替え、みるみる売上が下がっていく会社に正面から向き合うようになった。
一方で会社はギスギスした状態。
僕の代わりに役員に昇格した後輩は部下を怒鳴りつけ罵倒し、
会社としては理想の上司だった。

蚊帳の外にいた僕は冷めた目で見ながら、黙々と自分の仕事をこなしていた。
叱られもせず、褒められもしない。
「今はやるべきをやろう」
孤独ではあったが、そんな気持ちだった。
会社を見限る社員も増え退職者は続出。
会社の雰囲気はどんどん悪くなっていった。

ちょうどこの頃からマラソンを始めた。
長距離を走ることなんて好きでも何でもなかったが、
自分と向き合い、自分と戦うにはいい材料だった。

今一つ元気のない僕を誘ってくれたのはビジネススクールの仲間。
それにより自分に向き合えるようになった。

それからのことは以前のブログに書いた通り。
「社長になるまでのこと(前編)」
「社長になるまでのこと(後編)」
2007年度から2009年度までの2年で売上は15%までに減った。
15%減ではない。
リーマンショックの年に55%まで下がり、その翌年はさらに30%まで下がった。

過去経験したことのない赤字額。
名大社のかつての栄光はどこに・・・。
大げさにいえばそんな状況。
名大社は終わったと思った関係者は多かった。

そんな時に僕は社長になった。

続く・・・。

名大社半生を振り返る その20

2006年5月末、僕は40歳で取締役に就任した。
兼務役員なので扱いは社員のままだが、肩書は取締役。
どんな責任を負っていくのか、
どう変わっていくのか見えないままだったが、ずしりと重さは感じた。

僕らの提供する求人サービスもネットが中心。
新卒サイトは運営していたが、転職サイトのスタートは2006年。
これまでのベンダーではなく大手インフラ系のシステム会社と開発を行いサービスを提供し始めた。
リクナビNEXT、エン転職、マイナビ転職らの大手同業他社からは大きく遅れての立上げ。

当時、リクナビNEXTはYahooと提携していた。
その優位性を社長に説明し同じような検索エンジンはないかと聞かれ、
「グーグルがトップです」と答えると、
「うちはグーグルと提携しよう。テツ、交渉してこい」と平然と言われた。
「無理です」という回答は仕事から逃げているとしか受け取られなかった。

システム会社とのトラブルが続きその対応に追われた。
価格帯の設定やプロモーションもほぼ任されていたが、計画通りに販売も進まなかった。
取締役としての力不足と受け止められ、徐々に自分でも感じるようになった。

営業のクライアントからのクレームも僕が対応させられた。
上手く処理できないと能力不足と罵倒された。

この頃はあまりにも忙しかったので、名古屋市内のクライアントのみ担当し、
市外や岐阜県のクライアントは別の営業に任せていた。
先輩に任せていたクライアントはよかったが、
後輩に任せていたクライアントは見事に売上が減った。
売上は僕に計上されるためモチベーションの低下はあったと思うが、
毎年当然のように依頼頂いた仕事がなくなっていった。

制作企画部門、ネット事業、大学関連、採用担当、
そして営業と多くの業務を掛け持ちしていたため、綻びも出た。
全体を掌握する余裕も力量もなかった。
積もり積もったトップとの考え方の違いも少なからず影響した。

以前、「役員降格の話」というブログを書いた。
実力不足の一言でいいだろう。
僕は取締役として失格の烙印を押された。

1期2年のため、最初の一年は取締役として機能したが、2年目は肩書のみ。
ネット事業の責任者を外され、部門のマネージャーを外され、採用担当も外され、
気づいた時には社長直轄の一人営業になっていた。

上司は社長、部下はなし。
2008年の株主総会で正式に取締役を辞任すると
特別営業職という肩書が与えられ、ひたすら営業する日々を送った。

他に任せていたクライアントは幸い僕に戻ってきた。
「山田さんが担当ならまたお願いするよ」
そんなクライアントの存在がどん底に落ちた僕を救ってくれた。

それでも時間はあるので、飛び込み営業も行った。
見栄もプライドも関係なかった。
社内での存在感はほぼ消えていた。

さすがに会社に失望し真剣に退職を考え、人材紹介会社に登録。
「もう名大社を卒業しよう」
そんな時に起きたのがリーマンショックだった。

続く・・・。

仕事はやってますよ

最近、会う方に
「山田さん、もう辞めたんだっけ?」
なんて聞かれることが多くなった。

先月末に社長退任の報告をしたわけだが、今はまだ社長。
6月からも会長に就任するので、会社を辞めるわけではない。
仕事をしていないと錯覚する人や、
食べ歩き好きの半生を語る映画コラムニストと思う人もいたり・・・。。

「いいねえ~、悠々自適な生活で」
なんて全くお門違いのことを言われる方も。
世間では社長退任をそんなふうに捉えているのだろうか。

実際、悠々自適な隠居生活の方もいるが、
僕の場合、そんな余裕は一切ない。
まだまだ働かなくてはならない。
会社のためにも地域のためにも、
もちろん家族のためにも働かなきゃいけないのだ。

そんな意味では、これからより外に出る機会は増える。
また、そんな仕事を増やしていく。
ありがたいことにお声を掛けて頂くことも多い。

僕がやれることは何でもやります。
ぜひ、お声がけを!

そんなわけで、今週28日(木)は高校生の保護者向けの講演。

コロナの影響で2年間中止になっていたが、今年から再開。
僕のためにわざわざスケジュールを動かして頂いた。
写真は今まで以上に大きな扱い。
また、ブログまで紹介されている。
期待を裏切らないよう、気合いを入れて臨みます!

GW明けには大垣市で若手経営者向けの講演。
こちらはファミリービジネスについて話をさせてもらう。

10日には自分たちが中心の名古屋ファミリービジネス研究会のセミナーもあるし。
詳細はこちら
リアルは満席(あと1名・・・)。
オンラインは受付中だが、間もなく締切なのでお早めに。

6月からは大学の授業も始まる。
こちらはすでに5年目。
母校での講義もあったり・・・。

そんな感じで仕事はやっている。
名大社のメインの事業である採用支援とは異なるが、そこに繋がる流れにもなる。
少しでもお役に立てればいい。

僕がヒマそうにしてると思っている方は多い。
合っているようで合っていない。
おかげさまでお誘いいただき、夜の予定はかなり埋まってきた。
日中は日によって大きく違う。
余裕のある日も多い。

どんどん仕事はやりますよ。
営業もします。
お声がけ頂けると嬉しいですね。

どうぞよろしくお願いします。

名大社半生を振り返る その19

ビジネススクールへの通学は僕に大きな刺激を与えた。
名古屋校は2005年で開校3年目。
参加している連中は意識が高く能力的にも優れていた。

自分でそこそこできると思っていた僕はその能力の差に愕然とした。
完全に「井の中の蛙」だった。
自分のいる世界がいかに小さいかを痛感。
何もかも劣っている気がして危機感が増した。

却ってそれがよかった。
もし、ビジネススクールに通っていなければ今の僕は存在しなかった。
素晴らしい友人にも出会えたし、ここでの付き合いが自分の支えになった。
今もオンとオフの師匠でもある講師と出会ったのも2005年。

志の高い仲間と付き合い自分の未熟さを実感し机にも向かった。
それは仕事にもいい影響を与えた。
毎年のように僕が選考したメンバーが入社するのも励みになった。
仕事が好循環で回ったため、会社に対してのネガティブな要素も薄らいできた。

会社は2005年に名大社火曜日という子会社を設立。
非常勤の女性の営業部隊で転職フェアなど自社メディアを販売。
それほど知識やノウハウがなくても売れたので大きな戦力にもなった。

メンバーは火曜日のみ出勤。
ほぼ業務委託に近い雇用契約で歩合制。
会社として固定費のリスクは少なかった。
社長は名大社水曜日、木曜日、金曜日と作ることで営業チャネルを増やすことを目論んだ。

一時期は盛り上げてくれた存在だったが、
最後は僕が解散させることになってしまうが・・・。

この時期は業績的にも好調で、南端の会、北端の会という慰安旅行が企画された。
1年に2回メンバーをチョイスし、沖縄と北海道に3泊4日の旅行に出掛けた。
僕は沖縄の1組目で贅沢な経験もさせてもらった。
全額会社持ちでホテルもブセナテラスという高級リゾート。
利益還元も積極的に行われた時期で、ほぼ全員に順番が回ってきた。

オンもオフも多忙。
罪滅ぼし的に家族で毎年夏に沖縄旅行、冬に温泉旅行に出掛けた。
点数稼ぎをして何とか平和を維持。
あちこちに気を遣う日々だったが、充実もしていた。

2006年4月には制作企画部門の責任者を任された。
5月末の株主総会で取締役の就任も決まった。
「取締役待遇次長」というヘンテコな役職は名刺から消えた。
40歳になったばかりで史上最年少の役員。

サラリーマン人生でピークを迎えたが、長くは続かなかった。

続く・・・。

名大社半生を振り返る その18

2004年、2005年はモーレツに忙しかった。
2005年には愛知万博もあったため、その前後は景気も上向き。
会社の業績も上がっていた。

僕の営業マネージャーとしての評価はイマイチだったが、他の業務はどんどん押し寄せてきた。
そんな時期にCDA(キャリアカウンセラー)の講座に通い、資格取得を目指し勉強をした。

小さい子供を2人抱える嫁さん。
仕事ばかりで家庭を任せきりで、休日も勉強といって外出する旦那。
それだけならまだ許してくれるだろう。
仕事を終わってからの飲み会。
勉強会が終わってからの飲み会。

嫁さんは怒り心頭。
「なぜ分かってくれない?」
僕は自分を正当化したが、今の時代なら三行半だろうね。
やっぱり、スミマセン・・・。

新卒市場も再び活況になってきた。
リクルートなど大手同業他社は新たなイベントを打ち出した。
負けてはいられない。
対抗する大手向きの企画を立て、それまでお付き合いのなかった企業にも積極的にアプローチした。

ご縁のなかった地元大手企業と口座を持ったのもこの頃。
ここでは自慢をさせてもらうが、地場を代表する大手企業のかなりの割合を僕が開拓をした。
イベントも成果を出した。

2004年10月に取締役待遇次長というヘンテコな役職をもらった。
懇意にするクライアントから
「山田さん、それって役員じゃないよね?」
「そうですね」
「執行役員なの?」
「違いますね」
「じゃあ、何?」
「取締役に近い待遇ってことじゃないですか?」
「それで次長なの?」
「そうです」
「ギャハハハ」

自分でもよく分からなかったが、責任が重くなったのは事実。
書きたいことは他にもあるが、半生が進まないので細かいことは省く。
Pマークも無事に取得したとか・・・。

昼休憩は15分ほど。
当時、中日ビルの地下に「らーめん亭」というお値打ちな中華料理屋さんがあった。
確かチャーハンも天津飯も400円くらい。
天津飯はあっという間に出てくる。
そこでサクッと食べ会社に戻ることが多かった。

2005年1月にCDAも無事に合格。
大して勉強ができない割に目覚めてしまった。
4月からはビジネススクール(グロービス)にも通い始めた。

世間は盛り上がっていた2005年だが、会社は壮絶な年。
全社員の1/3が退職をした。
それも重要な戦力を失くした。

以前僕の部下だったTはその後、営業部門のエースとしてチーム全体で会社を引っ張っていた。
そのTが退職をした。
お互い別のチームを持っていた時も頻繁に飲みに行き、未来を語り合った。

そのTが退職。
その他信頼していたメンバーも辞めた。
「山田さんのことは尊敬しているし好きだけど、会社には付いていけません・・・」
そんなことも言われた。
かなり辛かった。

それが勉強に向かわせた理由の一つ。
会社は僕のビジネススクールへの通学を知り、受講料は会社持ちでいいと言ってくれた。
僕はそれを断った。
反発心があったのだろうか。

今思えば、とても勿体ない。

続く・・・。

名大社半生を振り返る その17

あれもこれも手を出すとロクなことがないのかもしれない。
2003年、2004年も社内も社外も変化が激しかった。

人材業界も新興勢力が力をつけてきた。
今はなきワイキューブが業界の話題になっていた。
名大社とのパートナー契約の話も上がったりもした。
条件はまとまらなかったが、存在はかなり気になっていた。

生意気な学生モニターにも言われた。
「名大社は古いっすね。これからはワイキューブじゃないですか」
若い連中にはそんなふうに映っていた。
確かベンチャーオンラインという会社もあったが、いつの間にか消えていた。

リクルートはナゴヤドームで派手にイベントを開催。
残念ながら名大社の大型イベントの倍以上のスケール。
どこも自社の存在感をモーレツに出していた。

僕のチームもメンバーが変わり、当時、勢いのあったIが僕の部下になった。
以前からIは僕によく言っていた。
「山田さん、独立しないんですか?。山田さんならやれると思いますよ」
それが理由ではないが、結構、可愛がった。

若いメンバー中心で何かを起こしたいという気概もあり、会社に対し提案もした。
そんな姿勢は僕も大切だと思ったが、それが裏目に出た。
会社への反発と受け取られた。

「テツはやっぱり若手を育てられない。」
勝手な行動をさせたことの責任を取り営業の部下を外された。
しばらくしてIを含め有望な若手が退職。
僕より上の部長級のメンバーも管理職失格の烙印を押され降格にもなった。
相変わらず激しい人事だった。

僕は自分が営業をしながら企画チームのデスクになった。
この頃から個人情報についてうるさく言われだした。
当時は名簿屋さんと呼ばれるブレーンと付き合っていた。
ルールに則った上での取引なので問題はないがグレーな面もあった。
その時、お付き合いした人も僕が社長になるタイミングで再会。
今は真っ当なビジネスでいいパートナー(笑)。

大手同業他社はプライバシーマーク(Pマーク)を所有していた。
世間的にもそれが求められるような時期。
名大社もPマークが必要な時期に迫られてきた。

感覚的な仕事は得意だが、こういった論理展開だけを積み重ねる仕事は苦手な分野。
しかし、そんな役割も僕に回ってきた。

改めて過去を振り返るといいように会社に利用されていないか?

机の上の書類の山積み。
シュレッダーはなく何でもゴミ箱にポイ。
個人情報って大事なの?
そんな会社だった。

とても自社だけで賄うことはできず、コンサルと一緒にゼロから組み立てた。
いい経験だったが、とても面倒な仕事。
書類を完成させ社内体制と整え、審査申請をする段階でミスが起こった。
直接僕が原因ではないが、責任者として叱責を受けた。

いやいや僕は企画担当ですよ。
と言いたいが、それも僕の責任だった。
なんだか叱責ばかり受けている。

それが2004年。
その年にCDA(キャリアカウンセラー)の資格のために受講がスタート。
机に向かい勉強するのは久しぶり。
自分の昂る気持ちとは裏腹に家庭内は険悪なムードだった。

続く・・・。

名大社半生を振り返る その16

21世紀に入った日本経済は混とんとしていた。
2002年はカルロス・ゴーン社長が日産で大鉈を振っていた。
失業率は5.6%と今とは比較にならない高水準。
友人の広告会社も倒産。

名大社の業績も上がったり下がったり。
僕は中間管理職だったものの、会社の経営状況さほど知らなかった。
あまり開示されていないのが理由たが、昔の資料を確認すると健全であったのは間違いない。

業績が下がった原因も明らか。
売上の大きな割合を占めていた新聞広告から自社媒体に大きくシフト。
代理店と自社媒体とでは利益構造が異なる。

見込みが外れた場合、自社媒体はリスクになるが、
計画通りに進捗すれば効率のいいビジネスにもなる。
たとえ売上が減少しても利益が増加する場合も多い。
会社も切り替わる段階で、代理店業務を減らしていった。

当時、自社の採用は経営陣がその都度対応していた。
そのやり方は僕から見れば今一つ。
採用支援をしている会社の割に自社採用には力を入れていなかった。

そんな状況を傍目で見ながら、
「オレだったら、もっと上手くやるのに・・・」
なんて、またまた図に乗ったことを考えていた。

そして、新卒採用をやらしてほしいと自ら手を挙げた。
新卒ナビ「名大社DeSu」を有効活用するためにも自分で組み立てる方が手っ取り早い。
そんな思いもあった。

会社説明会から筆記試験、小論文、面接とスケジュールを組み、段取りした。
面接も一次、二次は担当。

僕が担当になって初めて採用したのが、自称名大社のエース奥田くん。
今もザ・名大社的な存在感を社内外で醸し出している。
今でもヤツの面接は覚えている。

一次面接の際、奥田くんは学生らしくない髪型をしていた。
今なら完全な圧迫面接だが、僕は彼にこういった。
「よくそんな髪型で面接に来れるな。ふざけてるのか?」
確かそんなような言葉だった。

しどろもどろになりながらも真面目に受け答えする態度がよかった。
二次面接でサッパリとした髪型で登場し好印象を与えた。
そして、いつの間にか内定を獲得。

それはともかく採用担当を任された数年は自分勝手な面接をしていた。
とんちんかんな答えをいう学生に突っ込んで、「みん就」にボロクソ書かれたこともあった。
変なことは言っていないが誤解を招くので、それ以降は気を付けるようになった。
今はとても優しい面接官ですよ(笑)。

今、名大社の幹部となっている重野や神谷、二村、不破も僕が採用した優秀な人材。
見る目あるよね・・・。

また、インターネット事業の責任者として営業面はもちろんのことコンテンツ(編集ページ)も担当。
書店や百貨店、紳士服量販店と組んでコンテンツを制作し、学生モニターを募り情報を集めていた。
まだSNSのない時代、学生と座談会を行いそれを記事にしたり、
日記を書いてもらいナビに掲載していた。

そんな学生と飲みに行ったりした時期。
当時のモニターが立派な社会人なり、つい最近も僕に直接仕事の依頼があったり・・・。
ありがたいご縁だね。

自社の採用だけでなく直接学生と関わることも増えた。
当たり前のように就職相談も受けるようになった。
持論をかざしていたが本当にそれが正しいか分からない。
キャリアカウンセラーの資格を取得しようと思ったのもこの頃かも・・・。

いかん、時間がなかなか進まないし、ブログも長い。
もっとスピード上げないと半生ブログはいつまでも終わらない。

続く・・・。

名大社半生を振り返る その15

新卒ナビ「名大社DeSu」は無事にオープンしたものの、
後発でもあり社内的なリテラシー不足もあり、販売は伸び悩んでいた。
「東海地区No.1サイト」と自らうたっていたものの、
東海地区でサイトを運営していたのは名大社だけだから当たり前。

リクナビ、マイナビとは大きな差があり、
クライアントにも学生にも情報量不足と捉えられていた。
大学のキャリアセンターにアピールし、
応援してくれるものの「せめて200社は掲載してください」
と企業数の少なさは指摘された。

ナビは誰でも全てが見えるので比較が簡単。
営業もそれを言い訳にして契約できない。
僕は「ふざけるな。最初はゼロからスタートだろ。」と憤っていた。
「自分と同じ営業が10人いたら、トップの掲載数になるじゃないか。」
と真剣に思っていた。
驕った表現と誤解されるかもしれないが・・・。

お付き合い頂いたクライアントも中小企業が中心。
社内インフラが整っていない企業も多かった。
エントリー学生のリストを紙で持参するという今では考えられないサービスもあった。
学生も電話回線でネットが繋がっていた時代だしね。
何とかネット事業の売上をアップさせようと懸命だった。

営業、マネージャー、ネット事業責任者として激務が続いた。
それが21世紀を迎えた年。
そんな日々だったので、嫁さんは不満が溜まっていた。
第二子を妊娠したこともあり、家庭内は常にイライラした状態。

それでも11月に無事に息子が誕生。
本当にスミマセン。
反省しています。

部下の件では叩かれていたものの、個人的な信頼は回復。
女性の部下は結局、退職し責任も感じたが・・・。
社長が懇意にする企業の営業も任されたり、外交も知らず知らずのうちに増えてきた。

2001年3月に来訪があった。
仙台、新潟、金沢、広島の人材情報会社の社長がいきなり訪ねてきたのだ。
社長と面談を目的としていたようだが、僕がその対応をさせられた。

立場的には失礼にあたるが、当時、名大社は同業者には閉鎖的な会社。
協業や提携を求められることもあったが、全て断っていた。
今回の訪問も一緒に地域を盛り上げようという主旨。
僕は大いに興味を持ったが、社長も常務も何ら関心を示さなかった。

その後、広島の有名人とは何故かお付き合いさせてもらったが、その他の方とはそれっきり。
しかし、この時の出会いが社長になってから生きてくる。
9年後、ふるさと就職応援ネットワークに入会するが、来社された方が中心メンバー。

そのあたりのことは改めて・・・。
世の中はそんな偶然でできている。

この頃からプレゼンする場が増えパワポを使うようになった。
社内でのキックオフや大学での講演、クライアントへの提案書作成。
らしい企画書を作るためにマーケティングやロジカルシンキングを勉強し始めた時期。

少し前に仲のいい採用担当に言われたこともあった。
僕は提案力や企画力に自信を持っていたのだが、その担当はあっけなく言った。
「山田さんの営業力は人間性だけだね・・・」
「いやいや、違うでしょ?」
「それしかないと思うよ。」

そうなのか・・・。
褒められたようで、けなされたようで何ともいえない気持ち。
いずれにせよ、もっと能力を高めなければならない。
35歳になり気づくのは遅すぎるが、そんな時期でもあった。

続く・・・。