2006年5月末、僕は40歳で取締役に就任した。
兼務役員なので扱いは社員のままだが、肩書は取締役。
どんな責任を負っていくのか、
どう変わっていくのか見えないままだったが、ずしりと重さは感じた。

僕らの提供する求人サービスもネットが中心。
新卒サイトは運営していたが、転職サイトのスタートは2006年。
これまでのベンダーではなく大手インフラ系のシステム会社と開発を行いサービスを提供し始めた。
リクナビNEXT、エン転職、マイナビ転職らの大手同業他社からは大きく遅れての立上げ。

当時、リクナビNEXTはYahooと提携していた。
その優位性を社長に説明し同じような検索エンジンはないかと聞かれ、
「グーグルがトップです」と答えると、
「うちはグーグルと提携しよう。テツ、交渉してこい」と平然と言われた。
「無理です」という回答は仕事から逃げているとしか受け取られなかった。

システム会社とのトラブルが続きその対応に追われた。
価格帯の設定やプロモーションもほぼ任されていたが、計画通りに販売も進まなかった。
取締役としての力不足と受け止められ、徐々に自分でも感じるようになった。

営業のクライアントからのクレームも僕が対応させられた。
上手く処理できないと能力不足と罵倒された。

この頃はあまりにも忙しかったので、名古屋市内のクライアントのみ担当し、
市外や岐阜県のクライアントは別の営業に任せていた。
先輩に任せていたクライアントはよかったが、
後輩に任せていたクライアントは見事に売上が減った。
売上は僕に計上されるためモチベーションの低下はあったと思うが、
毎年当然のように依頼頂いた仕事がなくなっていった。

制作企画部門、ネット事業、大学関連、採用担当、
そして営業と多くの業務を掛け持ちしていたため、綻びも出た。
全体を掌握する余裕も力量もなかった。
積もり積もったトップとの考え方の違いも少なからず影響した。

以前、「役員降格の話」というブログを書いた。
実力不足の一言でいいだろう。
僕は取締役として失格の烙印を押された。

1期2年のため、最初の一年は取締役として機能したが、2年目は肩書のみ。
ネット事業の責任者を外され、部門のマネージャーを外され、採用担当も外され、
気づいた時には社長直轄の一人営業になっていた。

上司は社長、部下はなし。
2008年の株主総会で正式に取締役を辞任すると
特別営業職という肩書が与えられ、ひたすら営業する日々を送った。

他に任せていたクライアントは幸い僕に戻ってきた。
「山田さんが担当ならまたお願いするよ」
そんなクライアントの存在がどん底に落ちた僕を救ってくれた。

それでも時間はあるので、飛び込み営業も行った。
見栄もプライドも関係なかった。
社内での存在感はほぼ消えていた。

さすがに会社に失望し真剣に退職を考え、人材紹介会社に登録。
「もう名大社を卒業しよう」
そんな時に起きたのがリーマンショックだった。

続く・・・。